増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

教祖略伝 干渉(四)

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高野山真言宗に属し役行者を祀る金剛山地福寺 教祖は親が子供に認可を許される権道に依る方法を認めなかった

明治十三年頃には地場に帰来する信者益々多く、宿屋や蒸風呂では、十分人々が集まられぬ所から、乙木村の山本氏の勧めに従い、金剛山地福寺の出張となし、住職日宥真を所長に、秀司殿が副所長になり、天輪王如来という仏名を掲げ、説教を始められた。

然し教祖はこうした権道に依るを好まれなかった。所が明治十四年四月十日教祖と苦労を共にせられた秀司殿が逝去さられたので、そのままに打ち捨てられてしまった。

同年十月七日、教祖を始め五名の方が、多数の人を集め之を惑わすを理由として、拘留の上科料に処せられたもうた。また明治十五年二月、教祖外六名の方が、同理由の下に奈良警察署に召喚され、同じく科料に処せられた。

 

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教祖略伝 干渉(三)

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蒸風呂が甘露台の真横で営業された

 明治八年八月下旬、奈良県庁よりの命により、秀司殿同道出頭すべしと警官がやって来た。秀司殿風邪中に付き、辻氏代理として教祖に従い出かけ、参拝を禁ずるのみか、撲滅せんとの方針を採ったのである。これでは信徒が困難をするので、秀司殿は宿屋兼蒸風呂業の鑑札を受け、自由に信徒の参拝が出来る様に取計らわれた。

 

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教祖略伝 干渉(二)

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皇女や貴族の子女が門跡を務め、皇族に影響を持っていた寺院・山村御殿


この顛末が県庁に上申さられたと見え、同年十一月丹波市市役所より、教祖に山村御殿へ出頭するべき旨達さられた。これは教祖が憑物か否か、その正体を調べんために社寺係が採った手段である。何故なら山村御殿皇族の尼宮が座主とならるる名刹であるから、狐狸の類ならば、直ちにその正体を現すべしと考へたからである。

教祖は五名の門弟と共に出頭せられ、持仏堂に於いて稲尾某の取り調べを受けられたが、一言半句の滞りなく答えたまい、訊問終わってから神楽勤めをせよとの注文であったから、辻氏の歌で仲田氏に勤めさられた。

同年一月十七日、奈良の中教院より取り調べの件有之即刻出頭せよとの呼び出しがあったから、仲田、辻、松尾の三氏が出頭せられた所、天理王命は無い神ぢや、信心の世話をするなら中教院の世話せよ、頻りに改宗を勧められたので、呆然として帰られた。

 

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教祖略伝 干渉(一)

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明治5年4月より教部省は「三条の御趣意」すなわち三条教則(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴朝旨遵守)という基本綱領を月に数度説教させ、天皇国家制度を民衆へ注入しており大和神社はその請負機関であったため、神主らは古代からある本来の由来の説明ができなかった

京都の吉田家の許可も、明治維新の政変と共に、その効果を失ったのみか、明治五年には教部省が設置されて、同年七月には禁厭祈祷に対する、厳重なる布達が発せられた。

然るに同年十月、仲田、松尾の二氏が、大和神社の由来を聞くため同社に参り、神主に面会した所、神主が感情を害し、是が節となって政府の壓迫が、次第に始まって来た。

中山家は石上神宮の氏子なので、大和神社の神主より、その処置を依頼して来た、石上神宮からは神職五名が中山家に来たり、教祖に弁難せしも説破せられたので、帰途丹波市分署に訴へ出た。

教部省より布達のあった際とて、分署より警察官数名直ちに出張し、御簾、御鏡、御幣、金灯籠等の神具一切を没収して、村の総代に預けて引きあげた。

 

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教祖略伝 教基(五)

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八つの龍が降臨したとの伝説があり、石上神宮の奥の宮といわれている日の谷八つ岩等のイワクラが現存しピラミッド形状となってる、別名ニギハヤヒ(国見山)と呼ばれていた滝本の山中で、教祖は自らが出向いて甘露台となる聖石を選ばれた

明治十四年の末に至り、飯降氏の制作せられた甘露台の模型を、石造にて積みあげられる事となった。その時の石工は横田七次郎といい、瀧本の山中より信徒が大勢集まりて、荒石を地場に運び、漸く二段まで積まれた。

然るに石工の過失で、製作中の石をかき、遂に逃走したのでそのままに打ち捨てられた。翌年五月に、丹波市分署より警官が来て、その石を没収して持ち帰ったので、而来は再び木製のを用い、現在はその二段迄の模型が残されてある。

明治十六年教祖は八十六歳の時、勤め場所の北側に、三間四方の平屋を建築された。休息所と称するのはこれで、晩年教祖はその上段の間にあって信徒を教化さられたのである。

 

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教祖略伝 教基(四)

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かつての物部氏の拠点集落であった布留遺跡の祭場跡と調度重なっており、神々が人間を創造した場所に今後の信仰の中心拠点となる地場を定め、その証に甘露台が設置された

明治八年の春、神の啓示により、地場の芯を定められた。この日中山家の屋敷内を、人々に歩かせられた所、一点に来ると不思議にも足が動かなくなる。そこへ教祖は模型の甘露台を据えたもうた。

この甘露台は地場定めは、本教の信仰に点睛されたもの同然で、而来人々の信仰は、この甘露台を対象として次第に向上して来た。

同年表門の建築に着手せられる、門の向かって右側には窓なしの倉あり、左側は後に中南と称し、教祖の住居とせられた。

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教祖略伝 教基(三)

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わしが赤い着物を着ていりゃこそ世界明るいのや、わしが赤い着物を着なければ、世界暗闇やで、と語り、明治政府が強制した国家神道政策による元の神・実の神信仰に対する弾圧に対して、徹底抗戦を教祖自ら全身に赤衣を纏い表明された

明治六年教祖は飯降氏に命じて、甘露台の模型を木製にて造らしめたもうた。尤も模型なれば小さいものにても、御教祖の御居間に置かれてあったという。

明治七年山村御殿より帰宅さられて、始めて赤衣を召された。神懸り以後この時まで、三ッ菊の黒紋付の衣類を召されて居ったが、黒衣では身体が堪へられぬとて、赤衣に変へられたので、これは深い意義があるのである。後に神符はこの赤衣にて造られるるに至った。

 

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教祖略伝 教基(二)

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教祖直筆のお筆先

明治二年正月より、お筆先を起草しまたう。而来明治十四年第十七合を完成される迄、十二年間、夜な夜な行灯の下にて書き給うた。時には暗中にあって書きたまう事もあったが、その字体は少しも変わらなかった。

明治五年教祖は神命により、七十五日間の断食をされた。この断食は慶応元年の八、九月頃にも、三十日間行われたが、何れも御神酒と神水と少量の果物を召し上がるばかりで、穀気は少しも召されなかった。然し身体は少しの御衰弱もなく、力試しさへして、神の自由を示された。

尚この前後に教祖は別火別鍋と仰せられた。これは御飯と副食物を別に火を起して炊く意味で、要するに食事を全然他人と異にするというのである。

 

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教祖略伝 教基(一)

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当時お勤めで使用されていた拍子木

慶応二年以前のお勤めといへば、唯天理王命と神名を幾度となく唱えるに過ぎなかった。然るにこの年始めて悪しき払い助けたまへ天理王命と、祈祷の意とその手振りの形式を教へられ、朝夕の勤めに之を行うことになった。

翌慶応三年一月より、御神楽歌の制作に従事さられ、同年八月に至って脱稿し、その冬より神楽の手振りや、鳴物の稽古などを始められ、明治の初年に至りて、神楽勤めを完成せられた。

尚この年守屋筑前の厚意により、古市代官深谷氏の添書を得しかば、秀司殿は領主の副申を乞い、七月山澤氏を随行として京都に出て、神祇管領たる吉田家へ布教認可を出願せられた所、日ならず許可されたので布教の自由を得るに至った。

明治二年教祖の思召により、平等寺村の小東政吉の二女松枝を、秀司殿の室に迎へられる。この時秀司殿は四十八歳にして松枝は十九歳であった。

 

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教祖略伝 迫害(二)

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泉村不動院 表に現れた元の神、実の神の真実の教えを前にしては威嚇するしかなすすべはなかった。

又同年、並松村の医者吉川という者と、奈良の金剛院やまぶしが反対に来た。然し何れも教祖に説破せられて帰った。

その後教祖の道が栄えると共に、迫害は四方から起こった。慶応元年六月、田村の法林寺の住職、田井庄の光蓮寺の番僧等来たりて弁難攻撃す、この時小寒子が相手をせられ。女性と見て侮り、刃を畳に突き刺して威嚇す。小寒子は少しも怖れず、論破せれるので理に詰まり、遂には太鼓を破り提灯を落とし畳を切るなどの乱暴を極めて引き取った。

また同年大和全国の神官取締である、守屋神社の社司守屋筑前が、本教の正体を見極めんと、威儀を正して訪れた。その時教祖は自ら接したもうた。守屋筑前は種々の質問を試みた所、教祖の答弁が水の流るる如く、口を突いて出るので大いに感服し、遂に公認を得て布教をせられよといい残して引き取った。

慶応二年秋の頃小泉村不動院の祈祷者覚仁坊という者、若侍一人を連れて来る。秀司殿出て食い止めんとせられしも聞かず、神前に進んで騒がしかば、教祖出て座に就き覚仁坊と対せらる。

覚仁坊は教祖の答の淀みなきを見るや、問答無益と立ち上り、懐中より細引を取り出せしかば、左右にありし秀司殿と中山氏がその手を取りて引き留めるや、教祖は静かに身を隠したもうた。

若侍はこの時大刀を引き抜き、太鼓を打ち破ったり、小幟を切り倒したり乱暴を極め、覚仁坊は三本の御幣を没収して引きあぐると共に、古市陣屋の訴へ出た。翌日秀司殿が召喚され、以後神を祀るべからずと申し渡さる。

 

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教祖略伝 迫害(一)

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大和神社鳥居内。棟上げの日の翌日は丁度、江戸幕府が神社を統制するための法令・諸社禰宜神主法度(ショシャネギカンヌシハット)に基づき全国の神社に対し、社領の売買禁止などのほか、吉田神道を正統としてその統制に服することを義務づており、それに基づき日本諸国神祇道取締方を拝命していた守屋筑前守が特別 な祈祷を一週間していた最中であった。

元治元年十月二十六日、勤め場所の棟上げ日、大豆越の山中家よりの招待に応じ、一同同家に行かんと教祖に伺った。教祖は神の前通るなら勤めをして行けと仰せになった。

門弟の方々は途中、大和神社の前を通るので、勤めをしようと太鼓を打ち鳴らし、南無天理王命と声高く、鳥居内で勤めを始めた。

その物音に神主出て来り、社前を穢すの故を以て、三昼夜神社前の家に留置し、太鼓は没収し、各自の庄屋を呼び出して叱り付けた。

教祖略伝 布教(四)

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教祖が授けた扇

この年四月八日大豆越の山中忠七方に赴かれ、扇の授けを御渡しになった。又三度安堵村に行かれたが、そのころ、近村より信仰に入る者が俄に増加したという。

慶応元年八月十九日、再び山中忠七宅に赴かれ、数日御滞在になり、肥の授けを御渡しになった。この御滞在中、小寒子様も同家に赴かれ、共に滞在されたとの事である。

然るにその十月、針ケ別所村に於いて助蔵なる者、邪説を唱えて本地垂跡を説きしかば、教祖は破邪顕正のため、三名の門弟を連れて出張し、謬説を正したまうたので、助蔵もその不心得を謝し、炭一駄を持ち、教祖の御供をして地場まで送って来た。

その他明治三年平等寺村の小東家へ、小寒子様同道赴かれたのと、明治五年、若井村の松尾市兵衞氏の病気の際、小寒子様同道四日間滞在せられたのと、明治十五年六月、河内教興寺村の松村さく女病気の際、飯降氏同道訪れられたのが、助けの為に教祖が他出せられた重なるものである。

 

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教祖略伝 布教(三)

 

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勤め場所内 社はいらん、小そうても勤め場所を建てかけ、一間四方はしん、接足は心次第と、教祖は元の神、実の神を信ずる信仰者に対しての普請に対する姿勢を教示された

飯降氏の入信は妻女の産後からであったが、全快せしにより、同年七月二十六日夫婦連れにて礼参りせらえれた。その節社を造り献納したき旨申し出られたので、秀司殿から教祖に伺うと、社はいらん、小そうても勤め場所を建てかけと仰せられた。飯降氏はその神命をお受けになった。

飯降氏が愈々、一間四方の勤め場所の建築に着手さられんとするや、一間四方はしん、接足は心次第との仰せがあった。それで信者の人々とも相談の上、各自から寄付を集めることになり、建築の場所を伺われると、教祖は米庫と綿屋を取払へと仰せになった。

かくして九月十三日手斧始め、十月二十六日棟上げ、十二月の中旬に落成した。勤め場所は平屋六間に三間半の建物で、正面の六畳は一段高く、その半分を教祖の居間に使用せられた。その半分を仕切って神床にせられた。

 

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教祖略伝 布教(二)

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後に天啓を取り次ぐ中山みきの後継者となった本席・飯降伊蔵

教祖五十八の歳の時、櫟本の梶本家へ縁付かれた春子様、始めて帯屋許しを与えられた。信者へは六十一歳の時百姓惣助の妻お雪に、自ら行きて帯屋許しをせられたのは始めである。

かく教祖の教えが、主として帯屋許しから始まったので、その当時の人々は帯屋神様と称して、安産のみの守護を司る神の如く信じていた。

文久二年安堵村から、教祖の噂を聞いて、重病人の御助けを依頼に来た。教祖は鈴木清蔵を連れて、自ら出張になり、早速御助をせられ、帰途飯田岩次郎の腹痛に罹れるを助けられた。

文久三年の至って、教祖を神として信仰する、仲田、辻、山澤の諸氏が現れた。この年教祖は再び安堵村へ御出掛けになった。

翌元治元年には、山中、飯降、桝井の諸氏が入信せられたが、殊に飯降氏は、大工棟梁として教祖の待兼ねたまいし人であった。

 

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教祖略伝 布教(一)

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お針子を取り裁縫を教え狐憑きの類ではないことを証し、日々の暮らしを支えられた

帯屋疱瘡は萬道開けと教義にある如く、教祖の教は帯屋許しにその端を発している。教祖四十四歳の時、明日は何処へも出るのやないとの神意により、在宅された所、突然流産さられた。自ら汚れ物を洗い、平常通りに状態であられせられた。これを帯屋試しという。

里人教祖の行動を狐狸の類とし狂気と称するを以て、教祖は神命のままに、五十一歳の時より六年間ばかり、針子を取りて裁縫を教へたまい、狐狸の術にあらざるを証せられる。

教祖五十六歳の御時夫殿が没せられた。その年十七歳の小寒子に命じて、二、三の門弟と共に大阪に遣わし、辻々に立って声高く、天理王命と神命を唱へしめ、匂い掛けの道を開かしめたもうた。

 

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