この年四月八日大豆越の山中忠七方に赴かれ、扇の授けを御渡しになった。又三度安堵村に行かれたが、そのころ、近村より信仰に入る者が俄に増加したという。
慶応元年八月十九日、再び山中忠七宅に赴かれ、数日御滞在になり、肥の授けを御渡しになった。この御滞在中、小寒子様も同家に赴かれ、共に滞在されたとの事である。
然るにその十月、針ケ別所村に於いて助蔵なる者、邪説を唱えて本地垂跡を説きしかば、教祖は破邪顕正のため、三名の門弟を連れて出張し、謬説を正したまうたので、助蔵もその不心得を謝し、炭一駄を持ち、教祖の御供をして地場まで送って来た。
その他明治三年平等寺村の小東家へ、小寒子様同道赴かれたのと、明治五年、若井村の松尾市兵衞氏の病気の際、小寒子様同道四日間滞在せられたのと、明治十五年六月、河内教興寺村の松村さく女病気の際、飯降氏同道訪れられたのが、助けの為に教祖が他出せられた重なるものである。
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