増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求する

教祖略伝 教基(一)

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当時お勤めで使用されていた拍子木

慶応二年以前のお勤めといへば、唯天理王命と神名を幾度となく唱えるに過ぎなかった。然るにこの年始めて悪しき払い助けたまへ天理王命と、祈祷の意とその手振りの形式を教へられ、朝夕の勤めに之を行うことになった。

翌慶応三年一月より、御神楽歌の制作に従事さられ、同年八月に至って脱稿し、その冬より神楽の手振りや、鳴物の稽古などを始められ、明治の初年に至りて、神楽勤めを完成せられた。

尚この年守屋筑前の厚意により、古市代官深谷氏の添書を得しかば、秀司殿は領主の副申を乞い、七月山澤氏を随行として京都に出て、神祇管領たる吉田家へ布教認可を出願せられた所、日ならず許可されたので布教の自由を得るに至った。

明治二年教祖の思召により、平等寺村の小東政吉の二女松枝を、秀司殿の室に迎へられる。この時秀司殿は四十八歳にして松枝は十九歳であった。