明治十三年頃には地場に帰来する信者益々多く、宿屋や蒸風呂では、十分人々が集まられぬ所から、乙木村の山本氏の勧めに従い、金剛山地福寺の出張となし、住職日宥真を所長に、秀司殿が副所長になり、天輪王如来という仏名を掲げ、説教を始められた。
然し教祖はこうした権道に依るを好まれなかった。所が明治十四年四月十日教祖と苦労を共にせられた秀司殿が逝去さられたので、そのままに打ち捨てられてしまった。
同年十月七日、教祖を始め五名の方が、多数の人を集め之を惑わすを理由として、拘留の上科料に処せられたもうた。また明治十五年二月、教祖外六名の方が、同理由の下に奈良警察署に召喚され、同じく科料に処せられた。
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