神祇管領たる吉田家より得たる布教の許可は、明治維新の変動によりその効力を失うと共に、新政府の取締実施せられた。
明治五年の三月、教部省が設置せられ、五ヶ条の件出願を布達せられて、明治七年六月には、府県知事及び神道各館長に禁厭祈祷の対して厳重なる布達があった。本教に対する官憲の壓迫はこの頃より次第に厳しくなって来た。
明治七年十月、石上神宮の神職が突然出張して取調べ、同日警官数名が臨検して、弊、簾、鏡等を没収した。翌十一月には県庁の社寺係が、山村御殿に出張して、教祖を呼び出して取調べを行った。
明治八年九月、県庁の呼出しにより、教祖は辻氏随へ出頭せられし所、布達に抵触する故を以て留置を申し渡された。又信徒には本教の信仰を絶対に捨てるべく誓約せしめ、一方中山家に周囲には見張りの警官を配置して、参拝者を追い返さしめた。明治十年四月、医師の讒訴により、秀司氏は三十余日、奈良監獄所に拘留せられた事もあった。
かく厳重なる取締に加へて、累を教祖に及ぼすを恐れられ、中山家の門前に、参拝人断りの貼紙がせられた。然し熱心なる信徒は日増しに数を加へて勤場所へ集った。
淫祠邪教と目されたものに教会の設置を認可する筈なく、自然の放任が、教祖に累を及ばさねばならぬ。この間に立って秀司氏は蒸風呂兼宿屋業を思い立たれ、県庁の許可を得て営業を始められた。
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