増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

教会略史 教会公認の計画

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蒸風呂兼宿屋業も、信仰に対する官憲の干渉を全く避ける訳に行かぬので、明治十三年九月、金剛山地福寺に配下に属して、仏式の教会を設くるに至った。

然るに明治十五年九月に至り、神楽の立勤めを行はれたのを機とし、神仏混淆の上、多数の衆庶を参拝せしめたのを理由として、詰合うた人々の弁解も聞かず、十八日の払暁教祖を奈良へ拘引して行った。

教祖が奈良の監獄で、十日間の拘留に処せられたもうた共に、その高弟五名も同じく十日間の拘留を命ぜられた。当時険悪なる雲が、全く地場を蔽うていたのである。

 然るに一方神一条の道は、漸次各地に弘通して、講社の結成をなすもの次第に多く、大和、河内、摂津等に於いて、明治十四、五年頃には、二十有余の講社が続出したのである。

教組に御苦労を懸けぬよう、信徒の参拝が出来るよう、布教が自由に出来る為には、教会設置の認可を得るようり、他に方法の無きを見出し、当時詰合の人々が、百万心を尽くされたのである。

その一つが明治十四年、大阪に於いて行われた天理王社で、これは心学道話の研究を表看板として、その公認を得んとしたのであるが、司令すべき限りではないと却下された。

他の一つは明治十七年九月の天輪教会本部で、これ又大阪に於いて始められたのであるが、神意に叶わぬ所があったので中止らるゝに至った。その他各地の形式の下に、教会設置の計画をせられたが、何れもその成功を見ず、却って警官の圧迫の激しくなるばかりであった。

 

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