増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

真実と守護

f:id:kosetu-tenkei:20211111104558j:plain  神様が在るとか無いとか思う人がありますが、これは要するに真実が無いからであります。神様の御言葉に、無いと云へば無い、在ると云へば在る、願う誠の心より見えて来る利益が神の姿やと仰せられたことがあります。

  即ち神そのものは無形のものでありますから、見る事は出来ないが、誠の心から願ったその心に見せて下さる利益が、神の働きであって、それが神の姿の同じ事となるのであります。故に心に誠の無い者には、神様はついに其の姿を御現はしになるのであります。

  従って神様の働きは、真実を出したら見えると云うのであります。そこで其の真実と云う事でありますが、一口に真実と云ってしまへば、何でもない事でありますが、その真実にも段々があるのであります。神様の御言葉に依りますと、聞いて真実、見て真実、まこと真実、本真実で仰せになって居るのでありす。斯様に真実を云うても、段々あるのでありますから、口には云へないのであります。

  聞いて真実と云うのは、どう云うのであるかと云へば、人の話を聞いたり、又は人の真実な行をした話を聞いた所から、真の心になって通らねばならぬと思い付いて、真実の心になって通るにを云うのであります。

  次に見て真実と云うのは、聞いて真実より今一歩進んで居るのでありまして、人の誠の行をして居るのを、実際に自分が見た上から、自分も誠の心になって通ろうと云う心になったのを、神様は見て真実と仰せられたのであります。

 次に誠真実と云うのは、見たり聞いたりした真実より更に深いのでありまして、即ち見たり聞いたりした上から、更に又世界の上から考へまして、人間がこの世を通って行くのには、真実の心を持って通るより尊い事はないと云う事を自覚して、真実になって来るのを云うのであります。これを少批評的に申しますと、論理的の真実と云う事が出来るのであります。然しこれだけでは、未だ真の真実とは云う事が出来ないのであります。何故なら道理の上から考え付いた真実は又道理に依って崩されるからであります。

最後に本真実と云う事でありますが、これは自己の因縁を自覚した上から、その因縁を切って行くには、他人が何と云はうと、道理がどうあろうと、自分として真実の心になって通るより外に、自分の因縁を切る道がないと云うことを見出したなった上から、真実の心になって来るのを云うのであります。

  この真実が本当に心に治まりましたら、必ず神様は自由の御働きを見せて下さるのであります。故に本真実が我が胸から出る様に、自ら努めなければなりません。

※元の神、実の神々と出会う処ふるのさとへ!

10月26日秋の大祭記念十柱の神の御心と御守護

 ☆病諭し編⇒八方八柱の神人体御守護所細密並に悟り諭しの根本