神様が人間をお造りになったのは、云う迄もなく人間が陽気に暮らすのを見て神も共に楽しみたいと云うお心からであります。故に人間が心を陽気に持って暮らのすのが、何より神様の御心に適うのであります。所が人間は日々陽気の頃で暮らす事が出来ない。見ては不足、聞いて不足、思うては不足と云う様に、日々心をいづまして通って居るのであります。これが神様としては、非常に残念なのであります。
そこで元々陽気な心で暮らさせたいと云うお心から、この道を付けられたのであります。故に人間は人間心を捨てて、陽気な心になる様にして行かねばならんのであります。
故に懴悔をする様な場合にも、あれが悪いの、これが悪いのと云う様に、事柄について懴悔する様な事なく、自分の心から喜びの心が湧いて来る所まで、懴悔して行かねばなりません。
何故かと申しますると、神様への懴悔が届いたら、必ずその証拠として、心の内から云い知れぬ喜びが、湧いて来るものだからであります。此の喜びの心が湧かないのは、未だに懴悔が足らぬのであります。
或時私が或教会へ行って、ふとこの教会には神様がお出にならんと云うたのであります。そして更にこの教会は、移転をせねばならんと話しのであります。所が教会の役員等は、この教会は神様の御許しを得て建てたのであるから、どうしても移転が出来ないと主張するのであります。そこで私は教会に神様が御出でになるなら、心にもっと勇んだ理が出て居らねばならぬ、然るに心がいづんでいるのは、即ち神様が居られん証拠である。教会を移転する心定めたら、心から喜びが出て来るから、神様の御心に適うて居るのだと申しのであります。
その後種々の道行があって、終に移転する事に決まったのであります。すると皆の心が非常に勇んで来たのであります。その結果案じるよりも安く、神様の御守護を得て、移転する事が出来、それから追々教会も発展する様になって来ました。これなども喜ぶ所まで心の切りかへが出来たからであります。
斯様な訳でありますから、何人でも道は喜びの理の出る所まで、やって行かなければなりません。こうして喜び勇んで居る時には、人間的な階級も取り去られる如く、神様と人間とも同じ事になって来るのであります。
何故かと申しますると、喜ぶ心から湧いて来る理は、何れも神様の御心に適うからであります。それで心が勇んだら、月日も人間も同じ事や、と仰せられてたのであります。故にお道の者は心を勇まして、何でも月日と交りをさせて貰え様にならなければならんのであります。
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