同じく此の道を信仰する者でも、其の心に立ち入って見たらば、千差万別であります。其の表麺は真実らしく見えても、心の汚ない者もあれば、心は真実でも、表は無骨な者あります。従って心を見通しなる神様から見られたらば、色々違って見えるから、手入するものあれば其の儘こかす木もあると、仰せになったのであります。
然し若木の時は手入れをすることが出来ませんが、相当年限がたったら、手入にかゝるとのであります。これを云い換えれば、其の時までは未だ行く先、立派な木になるのや否や不明であったから、捨てて置いたのが、この木ならば先で立派な木になるのであろうと云う、見込みが付いて来たら、手入れをするのであります。それを神様が身に障りを付けて、手入をすると仰せらえるのであります。即ち神様が身上の上から、お仕込みになるのであります。
そこで云うて置かなければならぬ事は、同じ病気と云うてもお道の上からは三つに分かれると云うことであります。それは障りと病気と因縁病と云う事であります。第一障りと云うのは、心使いの間違いから、自分の心と人の心と、障り合う所から起るのでありまして、或は意見の衝突だとか、考えの違う所から出るのでありますから、一時的のものであって、捨てて置いても日が経てば癒るのであります。次に病気と云うのは思想から来るのでありまして、障りより見れば無論時間的に長いのは、云うまでもありませんが、特に其の思想が変わらない以上病気が癒らないのであります。最後に因縁の病気と云うものは、要するに前生からの持ち越しでありまして、その性格から生じて来るのであります。即ち如何に懴悔しても、その性格が生まれ変わった様に変わって来なければ、その病気は癒らぬのであります。斯様に病気と云いましても、区別があるのでありますから、人を助けるに之を見分けて行かねばならぬであります。
そこで神様が見込みのある者は、特に其の人を仕込む為に、身に障りを付けて育てられるであります。故に御道から申すと、病気が現れて来る程、結構になって居るのでありまして、熱心になればなるほど、神様の手入れが甚だしくまって来ますから、それを喜んで通られねばならぬのであります。
所が多くの信徒の中では、自分は信仰してから、少しも病気にならんと云うて居る人がありますが、これは神様の或意味に於いて、見捨てらえて居るのであります。私の父が信仰以来廿年間程、今日はやれ/\と思う日がなかったので神様に伺いましたら、一生懸命で来たから、神も一生懸命で仕込んだと仰せになりました。それで父は常に、人から見て不仕合せな人やと云はれるのは、神の眼から上行きになるのや、と申して居たのであります。
こう云う訳でありますから、この道は進んで行く程、苦しみが出て、窮屈になって行くのであります。
然しこれは人間から考えたら、非常に面白くない事でありますが、其のかわりに世界並の人では、見る事の出来ない事が、見られるようになるのであります。神様はそれを知らせたさに、身に障りを付けられるので、我が身に懸かった事はたとへとげがはいっていても、一生懸命になるから、その理が自然に悟れ、又忘れぬ所から、身の所々に理を現して、お仕込み下さるのであります。
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