この意味から、本部で倍加運動を云うことを打ち出されたことは、深く悟らねばならぬことであります。そしてどこまでも本部を信じてやらなければなりません。
大体ヂッとしていると云うことは、神様を疑っているのであるから、何でも地場の理に添って働かねばならないのであります。地場から何と云はれても、それを頼りにして行かなければなりません。神様の仰せ通りに働くから芽が出て来るのであります。
例へば私が皆さんに無理なことを云って、それを皆さんが聞いて下さると、又私も皆さん方の無理を聞かねばならないことになります。要するに、私等は神様の無理を聞いて、神様に無理を聞いて頂かねばならないのであります。その無理をどこまで聞いたか、どこまで聞いて貰へるかと云ふのが問題であります。
私の教会はそんな訳には行きません。と云っている様なことでは、神様はチットも働いて下さらないのであります。神様が働いて下さらぬから、少しも利益がないのであります。地場から流された事は、直ぐそれに取り係らねばならないに、それに直ぐやらなかっただけ、疑っているのであって二ケ年半も遅れたと云ふことは、神様に何とも申訳ないとことあると思ひます。神様の仰せ通りにさへすれば、たとへ下手でも神が後を引いて下さるのであります。親の言葉に反くと、後で聞いてくれない様になります。ですから、その際神様の御心に従って、出来るだけこの春に働いて頂かねばならぬのでのあります。
NEW★立教187年春季大祭記念 高井家資料(更新中)
神さまの一番お嫌いな心使いとは(高井家資料より抜粋)
神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。
八つの埃(ほし、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、こうまん、よく)よりも、「うそ」と「ついしょう」は、おきらいである。
うそとついしょうの元因は、やはり、自分かわい、吾身かわい、と云う欲の心から起こって来る。自分と云うものを、よう捨てきらないからである。
かねて父から(猶吉)「この道は、良い事をしておこられる、悪口を云われる、と思うて通れば、間違いないのや」と聞かされた。言いわけをしたり、心にもない事を云うたり、中心、誠心なくて「おじょうず」を云うたり、あるいは、うそを云うたり、これ皆、吾身かわい、と云う心から有る。故に日々は神様をめどうとして、神様におもたれして、通らせて頂く、人は知らなくても、神様がご存知じじゃ、人間思案するといらん、お歌にも
めい/\のハがみしやんハいらんもの
神がそれ/\みわけするぞや
吾身を忘れ、人間思案を捨てて、日々つとめはけむのが一番理に適うと思う
★十柱の神々の守護の理と御心を知るとが大開運と健康増大に直結する。
⇒十柱の神の守護の理と八つのほこり
★【門外不出資料】
教祖140年祭、三年千日記念
★大正時代の別席講話
(国々所処の手本となることが用木の目指す心得)
信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
★天の理
★大平良平資料集
★神の古記
★このやしきもとのかみ/\でてるから
にんげんはじめもとのいんねん⇒第八号欠損しているお筆先の意味とは
★お金と信仰について 百万のものを持ってくるより一厘の心を受けとる。(中山みきの神言集より)
☆やまと探訪☆
NEW★月日神社
☆お筆先第6号52番 伊弉諾と伊弉冊は一の神 これ天照皇の大神宮の解釈
★10月26日秋の大祭記念→十柱の神の御心と御守護
※元の神、実の神々と出会う処→ふるのさとへ!