増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求する

教会略史 勤場所(二)

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勤場所(現記念建物)で神楽勤、おてふり、教祖からの神の話の取次が行われ教祖や弟子らが神の勤めに励むこの小さくても勇んだ心で造り上げた勤場所から元の神、実の神の教えが急速に広がっていった

落つれば登るより道なく、霊泉は人の来り汲む如く、文久元年の頃に至って、教祖を生神として信ずる者付近に現れ、不思議な神珍しい神として、四方に喧伝せらるるに至り、参詣する者日に多きを加へた。

信者の増加はやがて参詣所の必要を感ぜしめた、この時教祖の衣鉢を継がるべき飯降氏が、内室のお助けより入信し、報恩の意を致す為に、大工の身を幸い社を造って奉献せんと願われし所、教祖は小そうても勤場所を始めかけと仰せられた。

神意に添い米庫と綿倉を取払い、飯降氏を大工棟梁として、世の元たるべき勤場所の建築に着手された。是れ元治元年の九月にして、翌月の二十六日に上棟式を行い、十一月中旬に至って落成した。

建築が予外の費用を要する例に洩れず、その年末の季節に至って、支払の困難が迫って来た。飯降氏は小寒子様の内意により、支払いの延期を瓦屋や材木屋に頼み歩かた。

勤場所は六間に三間半の平屋にして、正面八畳の間は上段にて、その奥に神床を設け、教祖は上段の左側に座を占めて、諄々として神命を宣べ伝へられた。是れ本教最初の詣場所にして、教会の歴史はここにその源を発している。

教会略史 勤場所(一)

 

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教祖から若き神と期待されていた小寒子は十柱の神であるくにさづちの命の魂の生まれ変わりである故、天保九年十月ニ十六日、親子もろとも神にささげた神との約束のもと教祖より厳しい仕込みが続いた

神懸りに依りて神の社と定められた教祖は、神命の指示に従い、貧困者に家財を恵みつつ、貧のどん底目懸けて、荊茨を意とせず落ち切りたもうた。

御年五十六歳の時、本家売却の節と立合い、四十三年来連添いし、夫善兵衞氏の出直しに接せられた。この時より教祖は敢然として、神一条の直路を進まれたのである。

教祖の真実に山彦の如く応じて、神一条の妙教を宣伝すべく神命の従い、嘉永六年、小寒子は十七歳の妙歳の身を以て、従者と共に大阪に赴き、辻々に立って南無天理王命と高唱せられた。

而来教祖の貧困は年と共に迫り、灯す油もつき、焚く薪も絶え、月光を頼りに落葉を焚いて、子女と寒夜を明したもうた。その苦労の中の苦労の道は、やがて末代に心の光を照すべき、神の思惑深き琢磨であった。

 

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(七)最終章

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松尾芭蕉も多数の堂塔と桜が織りなす大和の日光とうたわれた名刹を訪れ、「うち山やとざましらずの花ざかり」と歌を残した

 この内山永久寺跡にたたずむと明治七年十二月、人類の母親・いざなみの命が転生した中山みきが、何故、歴代皇女が入寺していた山村御殿での皇族らとの話し合いより帰宅されてから全身に月日の社を強調する赤衣をまとい、元の神、実の神の教えを時の権力に迎合して曲げることを一歩も許さず、最後まで御神命を貫き通し帰幽されたのか。

文明開化、尊皇攘夷とラッパを吹きながら、なぜ先の世界大戦へと新政府が国民を崖っぷちへと道へ導いていったのか。

現代では人類が管理制御すらできない原発核兵器、遺伝子組み換えの技術を利用したコロナウィルス生物兵器、遺伝子組み換えワクチンや食品など、権力と学問を使う者が本来持つべき心の置き所、守るべき人道の基準はどうあるべきなのか、自ずと心から理解することができる。

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(六)

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くにとこたちの命は釈迦如来、をもたりの命は阿弥陀如来、をふとのべの命は弘法大師等と転生していたのだ。それは魂振りの神の内、八柱の神々が仏となって各時代に現れ、民衆を正しき道に導いていたのであった。この驚嘆する事実を中山みきは天啓により弟子等に神仏一体の理由であると教示していた。しかし、その教祖の目前で新政権の神仏を恐ぬ蛮行が強硬された

新政権は、僧侶に対して「肉食妻帯勝手なるべし」と、わざわざ命令して、僧侶に戒律を犯させ、仏法の教えにいうところの「破戒」をさせようと企図したことは明白であった。僧侶は、ほとんど全員が神官や官憲になり還俗することを強制された。

経典は、町方で包装紙として使われるというゴミ同然の扱いを受け、塔や仏は薪にするために僧侶自ら叩き割り、売りに出され、多くの宝物は、混乱に乗じた略奪等によって散逸し、二束三文で町方に出回ったといわれている。

明治政府は文明開化を掲げ、尊皇攘夷と連呼しつつ、権力を得るために天皇を利用し、権力保持のため国家神道を国民に強制した。

それまで仏教を信仰していた天皇家天照大神の末裔と称し現人神に祀り上げ、渡来人である藤原氏一族が自らの正統性を担保するため、神代文字で残されていた各部族や神社に伝承されていた古史古伝を、権力維持のために利用できる箇所を漢文で翻訳し編纂した日本書記等を再利用した焼き直しが明治維新の本質であった。

仏も神も自分達の都合で愚弄してきた人間の浅はかな歴史の証しが、日本史上の一大汚点といわれている廃仏毀釈運動における内山永久寺の徹底的な破壊であった。

 

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(五)

 

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石上神宮から徒歩15分ほどにある内山永久寺跡にある案内版から塔頭、鎮守社を含め70以上の建物が確認できる。礎石もなく、草木が生い茂る永久寺跡。多数の堂塔を擁し栄え、大和の日光よばれた名刹であった。内山永久寺には、創建時からの建物が数多く残っていた可能性があり、存続していれば、一大国宝群や世界遺産候補になっていたと今もなお惜しまれている

 石上神宮の神宮寺である内山永久寺は総院号を金剛院といい、真言(古義宗派)にし阿弥陀如来を安置していた。そのむかし、鳥羽天皇の勅願によって創立され、時の年号によって(1113~1117年)永久寺ととなえ、内に一つの山があったので内山と号したという。

藤原後期以降多数の堂塔を擁し栄えた名刹であった。その後、延元元年(1336)に後醍醐天皇が吉野に遷幸の途次、一時この寺に立寄られた。下って文禄四年(1595)に豊臣秀吉から九七一石の寺領を与えられ、法隆寺の千石に匹敵する大寺であった。境内は五町四方の広大な地域をしめ(萱御所・後醍醐天皇仮御所)、その他の堂塔十四、内山の神社・拝殿五)坊舎五十二坊を有していたが、明治八年ごろ廃絶し、いまわずかに田園の中に当時の面影を残すに過ぎない。国家神道天皇制を結びつけ民衆を支配しようとする明治政府は歴代天皇ゆかりの地も容赦なく破壊していった。

 

 

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(四)

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大和の三大名刹と呼ばれていた桃尾山龍福寺、現在あるのは大親寺と寺名を変更している。天皇制神話(支配体制神話)の神武東征神話である「古事記」「日本書紀」にあらわれた神道を国体とするため、神武東征に先立ち、饒速日尊が降臨したと伝えられてきた桃尾山の寺院は明治政府に特に念入りに徹底的に破壊され、魂振りの神とそれに連なる神道や寺院は弾圧、破壊の対象となった

 桃尾山龍福寺は、真言宗高野山派に属し、十一面観音菩薩を本尊としていた。当時の伽藍は東西1,100m、南北660mと広大で、明治初年まで学侶方行人方に分かれて十六坊あり、堂々たる山寺をなしていたが明治時代の廃仏毀釈で廃寺となった。

「桃尾寺記」によると、奈良時代和銅年間)に義淵(ぎえん)僧正がこの地に至り、小堂を建てたのが始まりとされている。その後建立から20年後の天平年間には行基が義淵の後を慕ってこの地を訪れ、堂塔を建立し、大伽藍を完成した。しかし、後にその堂塔も荒廃し、約80年後の天長年間に弘法大師が訪れてその様を嘆き、新しく精舎を興して真言密教の大道場に再興した。行基空海も物部族縁故の地に出自をもつ。

 

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(三)

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神道大祓祝詞集 十種大祓より原文を転写

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排尾の山とは桃尾の山のこと

饒速日尊は神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国奈良県)に移ったとされている。この大和国とは現在の天理市桃尾の山といわれている。滝本の山が別名ニギハヤヒといわれていたことからも考察できる。十種神とは十種類の神々であり、その神々は十種ノ神宝に御鎮座し、その霊力で死者すら蘇ることができたといわていた。つまり、人間に身体を貸している元の神、実の神である十柱の神々のことであったのだ。天保九年十月二十六日夜、教祖に次々と天降った神々は、裏の守護からの表に現れて、万委細の元を人類に教え始める御宣託のための出現であった。

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(二)

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神道体系 神社編十二 大神・石上 布留ノ傳の原文を掲載  
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石上神宮は往古、上皇大神宮と呼ばれ、中御殿には国常立尊天照大神として祀り、西御殿には伊弉諾尊である高皇産霊尊天照大神として祀り、また他の十柱の神々もぞれぞれの御殿で祀り、日の本の信仰の中心地となり民を治めていた。

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(一)

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神道体系 神社編十二 大神・石上 物部氏口傳抄の原文を掲載 

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天保九年十月二十六日夜、教組に十柱の神々が次々と天下った。神々といざなみの命といざなぎの命との約束の年限が満ちた九億九万九千九百九十九年の時を経て人類の表に出現した出来事であった。しかし元の神、実の神は、それまでは十種ノ神宝を御神体とする布留の御霊として現れ、日の本や世界、そして人類を裏から守護していたのである。物部一族は地場が出現する以前、はるか縄文時代より現在の地場の地となっている日の本、生屋敷にてこの十種ノ神宝を大切に代々祀り継承していた。

※尚、今回の考察は増野鼓雪の文章からの引用ではなくブログ読者が親神の天啓を更に深めるために執筆者が考察した文章です。

教祖略伝▪最終章 帰幽(三)  

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御休息所内 奥の長四畳の間で教祖は九十年に及ぶ人間の母親であるいざなみの命としての神命を全うされ、自ら世界一列が救かる雛形の道を残したまい静かに御帰幽された

教祖は四、五の門弟と休息所に於て、この勇ましき神楽勤めの声を聞き、いと満足の様子であったが、北枕に西向いて静かに眠りに落ちたもうた。付添の門弟が能く能く注意をしてみると、教祖は既に社の扉を開いて、昇天遊ばされて居った。それを知った人々が驚いて、甘露台に駆け付けた時、神楽勤めが終って柏手の音が高く聞えていた。

三千世界を助ける大使命を帯びて、我が人界に現れたもうた教祖は、九十年の苦難に堪え、使命を全うして御帰幽になったのである。

教祖略伝 帰幽(二)  

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真柱の中山眞之亮飯降伊蔵を通して、人間は法律に逆らうことできない、三ヵ条についてのお尋ねがあれば何と返答すればいいのかを伺うと「さあさあ月日ありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」と月日がすべてに優先し、神の話を心に治め、それにかなう真実の心を定めることが元の神、実の神信仰の順序の理であるとの天啓が下った。

明れば明治二十年、教祖九十歳を迎へられた。正月十九日の夜に至って、教祖の身上勝れたまわぬので、御伺いすると、勤めをせよとのことであった。然し勤めをすれば警官が喧しいので、暫く猶予を御願い申した。

正月二十六日、又々教祖の身上が悪いので、飯降氏に依って神意を伺われると、さあろくぢに踏出す、さあ扉を開いて地をならそうか、扉を閉めて地をならそうかとの御尋ねであったので、扉を開いて御守護願度と御答へした所、一列扉開く開くころりと変るでとの仰せであった。

同日教祖が神楽勤めを急込みたまうこと、甚だ急であったので、前館長始め門弟等は、警察に拘留せれるる覚悟を定めて、常になく鉦太鼓の音高く、甘露台を中心に、神楽勤めを行われた。

 

教祖略伝 帰幽(一)

 

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大三輪神を祀る大神教会。教会設置の設置に対しては、唯教祖が不快であらせらるるというのみであり、教祖がお隠れになるという重大な結末に至ることは、その時高弟子の誰も考え及ばなかった。

信徒が増加するに従って、教会設置の急は信者の胸に迫って来たので、画策するがあったが、何れも成功せなかった。それで明治十八年五月、神道本局の教師となり、六等教会たるを許された。

同年六月、神道本局の添書を得て、教会設置を大阪府へ願い出たが、聞届難しとの指令があったので、七月再願の手続きをしたが、是れ亦聞届難しとのことであった。

然るに明治十九年に、神道本局より内海、古川の両氏が地場に立寄り、本教の価値を認め、教会公認を得る迄、大神教会の管理を受くべしと注意された。

かく教会公認の要求が、信徒の間に漲って来たのに反して、同年十一月十六日、浴室から教祖が出でたまう時、思わずよろめきたもうた。

是が動機となって、御身体に軽微なる異常を拝したが、その後は別に変わったこともなく、唯教祖が不快であらせらるるというのみであった。然し門弟は何かの神意であろうと種々協議の中に、明治十九年も遂に暮れた。

教祖略伝 干渉(七)  

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教祖の履いておられた赤い下駄。教祖は拘留中、下駄を枕に極寒の夜を過ごし神命を貫徹された

明治十九年正月十五日、心勇講の一団参拝し、甘露台にてお勤めを願い出しも、教祖に迷惑かけてはとの心配、前館長は断然断られた。心勇講の人々は、止むなく豆腐屋にて神楽勤めを行った。所が櫟本分署より数名の警官出張し、御勤めを差止め、教祖、前館長外二名を拘引して帰った。

二、三の取調べを口実として日を延ばし、三日を経て教祖に十二日間の拘留を申し渡した。桝井、仲田の二氏は十日間の拘留となった。

是れ教祖の最後の御苦労にして、この時山澤ひさ子が付添いとして行かれたのであるから、八十九歳の老齢をもって、極寒にしかも寒風にさらされ、夜は下駄を枕にしてお寝み下さった事績は、本教徒の忘るべからざる事である。

 

 

 

教祖略伝 干渉(六)

 

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氏神に集合してそれぞれの役割の神楽面を着け、背中には教祖より授けられし月日の紋を付け、いざなみの命といざなぎの命を中心に囲んで三島の四方で雨乞い勤めを行った

明治十六年七月十三日、大阪一円は旱魃にて、村民の困る所から雨乞を中山家に懇願して来た。前館長は一応拒絶されたが、強いての願望に教祖の許しを得て、その乞いを容られた。

詰合の人々、三島領の四角の於いて、雨乞勤めを行われたと所、俄に盆を覆すが如き大雨が降ったので、村民は狂喜したが、お勤めに加わった十二名の者は、水利妨害の理由によって、丹波市分署に連行せられ、神楽勤の道具一切を没収さられ、各自科料に処せられた。

夕刻に至り警官一名、更めて教祖を拘引に来たり、丹波市分署に於いて科料を申し付けた。その拘留の際、政子様の手が警官に触れたのを、警官を殴打せりとて、これ亦科料に処さられた。

明治十七年三月の或夜、突然警官が中山家に来たり、教祖の側に御供あるを見付け、抜刀して鴻田氏を詰責す。翌日教祖や鴻田氏を拘引し奈良監獄処へ教祖は十二日、鴻田氏は十日間拘留せらる。また八月一人拘引せられ、同じく奈良監獄で十二日間拘留せられまたもう。

 

教祖略伝 干渉(五)

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奈良監獄所監房跡

同年十五年十月二日、丹波市分署より出張して、甘露台の石や教祖の衣類を没収した。又九月十八日神命により、神楽勤めを行いたるを違警罪に問われ、教祖の外五名の者が十日間奈良監獄処に拘留さられた。同年三十日秀司殿婦人松枝様が、この困難の中で逝去せられた。

明治十六年四月二十六日、御縁日に参詣人あれば、取締を丹波市分署に届出でられた。その日は無事に済んだが夕方に至って五名の警官再び来たり、自作の一銭銅貨の包を出して、賽銭をとるとて責め、神饌などするから人が集まるとて餅を投げ出し、御社を焼かしめるのみか、謝意を籠めたる手続書を取りて引き上げた。