信仰と云うのは、一口に申しますと、神様を渇仰し信頼することでありますが、神様は形のないものでありますから、五官に触れて覚ることは出来ません。その分からぬ神を信仰すると云うことは、普通の考では会得出来ないことであります。ですから昔から信仰は比喩で云われてありますが、最もよく似ているのは男女の恋であります。恋は来るには不思議なれば、去るもの不思議であって普通の判断では解りません。一寸考えたら、男は美しい女に惚れるべき筈でりますが、これは万人が万人そうであると云う訳のものではありません。
美学上の判断に照らして、その女が美しいからと云って、凡ての男がその女に恋するとは限らないのであります。ある機会に触れると、あばたもえくぼに見えて、醜い女にでも惚れることがあるのであります。第三者から見ると、どうしてあんな女に惚れたかと思う様な女に惚れることがあります。然し当人になって見れば、その女が絶対で天使の様に見えるのであります。それは何故であるか、それはどんな学者にも解らないのであります。
信仰も丁度その通りでありまして、他の人が信ずるからと云って、信ずる訳にも行かず、又他の人からお止めなさいと云はれても止められるものではないのであります。若し止められるとするならば、それは今までの信仰が、まだ本当の信仰ではなかったのであります。故に信仰は、理解や会得以上に、さらに深い処が無ければならぬので、それは感ずるより外に方法はないのであります。
感ずると云うことは電気に触れるようなものであります。触れている所は、極く僅かな電線でありますが、それが全身に感じて、しかもその人は命がけであります。信仰も丁度それではなければならないので、単に話を聞いて記憶したと云うだけでは駄目であります。
★十柱の神々の守護の理と御心を知るとが大開運と健康増大に直結する。
⇒十柱の神の守護の理と八つのほこり
★【門外不出資料】
教祖140年祭、三年千日記念
★大正時代の別席講和(国々所処の手本となることが用木の目指す心得)
信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
★天の理
★大平良平資料集
★神の古記
★このやしきもとのかみ/\でてるから
にんげんはじめもとのいんねん⇒第八号欠損しているお筆先の意味とは
★お金と信仰について 百万のものを持ってくるより一厘の心を受けとる。(中山みきの神言集より)
☆やまと探訪☆
NEW★月日神社
☆お筆先第6号52番 伊弉諾と伊弉冊は一の神 これ天照皇の大神宮の解釈
★10月26日秋の大祭記念→十柱の神の御心と御守護
※元の神、実の神々と出会う処→ふるのさとへ!