中山みき
助けて下さる下さらないとは神様の御勝手次第で、私等は正しい道を通らして貰へばよいのであります。教へ通りに行く心さへあれば、それでよいのであります。もっと助かりたければ、もっと多くの困難を受けて行く心ならばそれでよいのであります。私の考へる…
それで、この四十年祭後、如何なる決心をもって進まねばならないかと云へば、どうしても若い人が、内容の充実に尽さねばならのでありまするが、これは青年だけの仕事ではないのであります。神様の仰しゃった様に、青年と云うのは元気があるが、頼りにならな…
この間、検定試験の口頭試問に行きましたが、こう云うことがありました。検定試験を受ける理由を聞いたら、私は信徒を二三十戸拵へましたと云いました。又教師になりたいからだとも云いました。それから、将来信徒を教養して行くのであったら、教校へ這入っ…
それで今日までは出来たものは、何処が空っぽであるかと申しますと、個々の教会については、内容の充実している所があるでしょうが、全体から云いますと、新たに出来た教会は、甚だ内容が貧弱であります。大阪辺にはそんな教会はないだろとう思いますが、家…
社会が今の様に不景気になって、本教の生活に行詰りを見る様になったのは、一体神様のどう云う思召からであるかと云うことを、私等は、深く考へて見なければならぬのであります。お道の隆盛を計っておられる神様が、なぜこうしたことをお見せになるのか。こ…
信仰と云うものは、私が今更申し上げる迄もなく、日に新たなる力を作るものでなければならないのであります。然るに斯くの如く疲労の色を現はし始めたと云うことは、新たなる力を作るべき信仰が無くなりかけたことでありまして信仰の堕落を物語っているので…
この転換期に当たって各教会と見てみますに、一般に過去三ヶ年の活動によって、稍疲労してをる様な傾が見受けられるのであります。これは現在における、天理教一般の教勢の如く、考へられているのでありますが、これは何がためであるかと云へば、云うまでも…
教会は五割或はそれ以上の急激な事をもって、短時日の間に発達して来たのであります。しかしこの傾向がいつまでも続くものではありません。ある時期になれば、これを内面的に、内容の充実を図らねばならない時に出会うのであります。そうして現在は、正にそ…
四十年が提唱さられましてから、本教の教内は俄かに活気を呈し、未だかって見なかったところの、緊張味を現して来たのであります。何処から云い出されたのか、兎に角倍加運動と云う声と共に、教会及び教師の数の増加は、約五割と云う驚くべき倍加率を示して…
所が芽を出すだけ出させ、枝を張るだけ張らせると、それは野育ちになってしまうから、今度は鋏でもって摘まれるのであります。鋏で摘まれた植木は傍から見れば恰好がよいが、木自身のなって思へば、矢張り摘まれるのは苦しいことであります。教会でもこの摘…
私等の信仰がまだ堅固でない間は、どうしても生活するかと云うことが、大層大きな問題となって私等の心を悩ますのであります。教会で内職したりするのは、お道から云へば殆どなっていない。その人達は、義理から何かで神様を祀っていると云うだけのことで、…
こうして考へて来ると、御教祖の年祭毎にお道は不景気の影響を受けて来ていますが、今度は四十年祭であります。こゝ暫く前までには好景気が続いて、四十年祭を前に控へた今年になってから、こう不景気風が吹きかけて来たのであります。それで私は、四十年祭…
今までに時々話を聞いて見るのに、教会で内職をしている所が沢山あったが、こゝ一二年來殆どそんな教会はなくなったと云うことであります。今から十年程前には、教会はやっているものの、食うに困って内職をやっていた様な教会かくあったのであります。これ…
それでは、どう云う所が変わって来たかたと云うと、世の中に金が出来て来たと云うことがわかった。昔の時代に比べて、現在の世の中には金が非常に殖えて来たことが私等にもよくわかる。金が殖えるばかりで、品物の少ないから金の値が下がって品物の価値が上…
何か題を出してお話しせよ云うことでありましたが、私は昨日まで他所へ出て居ったので、別に何も考へて居ないのですが、兎に角「来るべき問題」と云うことにして、お話し致したいと思います。 所でこれは将来に関することであって、只私が将来はこう云うこと…
又こんなことがよくあります。地場で会議を開いて相談をしたことが、その折にはなんでもないと思ったことが、年月が経つと非常に役に立ってくることが随分沢山あります。又こんなことがありましたが、皆様も御承知のあの教館を建てる時のことであります。初…
教会でも、個人の上から考へても、一生懸命にお助けもし、色々の人材が居て活動もしているが、その割に教会の発展しないのは、お互の力で、お互が力を殺し合っているからであります。 そう云う訳で、教会は人々の精神が一つになっていなければ、発展するもの…
此の前にお話し申し上げた話の主眼は、何処にあったかと申しますと、当教会は山名か 教会は如何に良いことを考へ、如何に良い方法を執っても、それを用いる人を得なければ、その考へも方法も、なにもならぬのであります。教会が盛大になると云うことは、それ…
又ある時、ある先生の息子が勉強をしたいと云ってお願いをしたことがあります。所がその時神様は「勉強することは許してやるが、三年分の勉強を一年でして来い。」と仰せになったと云うこともあります。その人人の精神次第で、一年間に三年分の仕事も、やれ…
所で、学校を卒業せられたら、夫々国所へ出て布教をして貰はねばならないのでありますが、今までやって来た様な布教の仕方をして居って貰っては困ります。何故ならば、神様は「三年経てば遠慮気兼は要らぬ」と仰せられています。これまでは、お道の人は、世…
心を合せて喜んで道を通れば、神様も喜んで働いて下さるのでありますが、成らん様なことでも、神様の御守護で出来るのであります。人間は成ることは誰でもする様に思いますが、道は成りそうなことが成らず、ならんことが成って来るのでありますが、そこに神…
人はよく慾を取って終うと云うことを言って居ますが、慾は取れるものではないのであって、慾は忘たらよいのであります。神様も慾を捨てよとは云って居られない。御神楽歌の中にも「慾を忘れてひのきしん」と仰せられていますが、実際は慾は取ろうしても取れ…
人はよく分るとか分からんと云いますが、世の中のことは分からん方がよいのであります。人間で考えて分からないのが本当であります。分ると云うことはものを分けることであって、ものが分れば小さくなってしまうので、分からない方が大きいのであります。 教…
人はよく誠と云うことを申しますが、本当の誠はそういう口で云う様に、容易に現れるものではありません。本当の誠は一番苦しい時に現れるものであります。 一切を捨てて難儀苦労をする中に、誠が現れるのであって、難儀苦労をすると云うことは、誠を知る為に…
知ると云うことと感ずる云うこととは大変意味が違います。教祖の御言葉でも、それを知るのは誰でもすぐ知ることが出来ます。けれども本当に教理を感ずるのには、一つの教理でも十年位はかゝるのであります。 そこでこのお道は「年限の道」と仰せられてありま…
年限の理 この様に道を辿り行くのには、何かなしに行くのであるかと云いますと、決してそうではありません。そこに何か目標がなければなりません。そしてその目標は必ずしも一様ではありません。時によると変わるのであります。初めて信仰する人は、神様に身…
信仰と云うのは、一口に申しますと、神様を渇仰し信頼することでありますが、神様は形のないものでありますから、五官に触れて覚ることは出来ません。その分からぬ神を信仰すると云うことは、普通の考では会得出来ないことであります。ですから昔から信仰は…
ですからお助けをするものは、皆霊救を得ることを考へなければならないのでありますが、霊救は誰でも受けたいが仲々そうは行きません。神様は汚れた所へは行かんと仰せられますが、人間でも汚い処へ泊るのは厭であります。 清くして置けば入り易いのです。神…
(二) 人のことを聞いてそれを気にしているより、仲良く暮した方がいくら良いか判りません。疑いや誤解と云うこと程、怖ろしいことはありません。誤解からは色々な間違いが出来るのであります。それを取去った心が極楽であります。心の底から喜びが出来るの…
教組は御在世中に多くの人を助けておられるが、助けられたからと云って皆ついて来たかと言へば、殆どついて来なかった者ばかりだったのであります。ついて来た人は僅か二十人位に過ぎなかったのであります。 その二十人のものが教祖の精神を受けついで、道を…