増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

中山みき

地場への心(三)

又ある時、ある先生の息子が勉強をしたいと云ってお願いをしたことがあります。所がその時神様は「勉強することは許してやるが、三年分の勉強を一年でして来い。」と仰せになったと云うこともあります。その人人の精神次第で、一年間に三年分の仕事も、やれ…

地場を辞する人々へ(四)

所で、学校を卒業せられたら、夫々国所へ出て布教をして貰はねばならないのでありますが、今までやって来た様な布教の仕方をして居って貰っては困ります。何故ならば、神様は「三年経てば遠慮気兼は要らぬ」と仰せられています。これまでは、お道の人は、世…

神の守護(五)

心を合せて喜んで道を通れば、神様も喜んで働いて下さるのでありますが、成らん様なことでも、神様の御守護で出来るのであります。人間は成ることは誰でもする様に思いますが、道は成りそうなことが成らず、ならんことが成って来るのでありますが、そこに神…

神の守護(四)

人はよく慾を取って終うと云うことを言って居ますが、慾は取れるものではないのであって、慾は忘たらよいのであります。神様も慾を捨てよとは云って居られない。御神楽歌の中にも「慾を忘れてひのきしん」と仰せられていますが、実際は慾は取ろうしても取れ…

神の守護(三)

人はよく分るとか分からんと云いますが、世の中のことは分からん方がよいのであります。人間で考えて分からないのが本当であります。分ると云うことはものを分けることであって、ものが分れば小さくなってしまうので、分からない方が大きいのであります。 教…

神の守護(一)

人はよく誠と云うことを申しますが、本当の誠はそういう口で云う様に、容易に現れるものではありません。本当の誠は一番苦しい時に現れるものであります。 一切を捨てて難儀苦労をする中に、誠が現れるのであって、難儀苦労をすると云うことは、誠を知る為に…

年限の理(五)

知ると云うことと感ずる云うこととは大変意味が違います。教祖の御言葉でも、それを知るのは誰でもすぐ知ることが出来ます。けれども本当に教理を感ずるのには、一つの教理でも十年位はかゝるのであります。 そこでこのお道は「年限の道」と仰せられてありま…

年限の理(四)

年限の理 この様に道を辿り行くのには、何かなしに行くのであるかと云いますと、決してそうではありません。そこに何か目標がなければなりません。そしてその目標は必ずしも一様ではありません。時によると変わるのであります。初めて信仰する人は、神様に身…

年限の理(一)

信仰と云うのは、一口に申しますと、神様を渇仰し信頼することでありますが、神様は形のないものでありますから、五官に触れて覚ることは出来ません。その分からぬ神を信仰すると云うことは、普通の考では会得出来ないことであります。ですから昔から信仰は…

信仰の向上(三)

ですからお助けをするものは、皆霊救を得ることを考へなければならないのでありますが、霊救は誰でも受けたいが仲々そうは行きません。神様は汚れた所へは行かんと仰せられますが、人間でも汚い処へ泊るのは厭であります。 清くして置けば入り易いのです。神…

信仰の向上(二)

(二) 人のことを聞いてそれを気にしているより、仲良く暮した方がいくら良いか判りません。疑いや誤解と云うこと程、怖ろしいことはありません。誤解からは色々な間違いが出来るのであります。それを取去った心が極楽であります。心の底から喜びが出来るの…

神一条の道 三(二)

教組は御在世中に多くの人を助けておられるが、助けられたからと云って皆ついて来たかと言へば、殆どついて来なかった者ばかりだったのであります。ついて来た人は僅か二十人位に過ぎなかったのであります。 その二十人のものが教祖の精神を受けついで、道を…

神一条の道 三(一)

教会の発達と云うことも、つまり御地場に尽した理が現れて来るのであります。又地場は教祖五十年の理の伏せ込んである所でありますから、お地場に現れて来ることは、みな神様がおさせになるのであります。 神様は「屋敷から打出す言葉は天の言葉」と仰せられ…

神一条の道 二(二)

ある時にある人が、暑い日の照っている時に、傘を以て高下駄をはいて外出したのであります。それを見た人々は、この好天気歩く傘を持って高下駄をはいて歩く人がると云って笑っていたのであります。所が今まで良かった天気ががらりと変って、大粒の雨が降っ…

神一条の道 二(一)

この教祖五十年の道が分かっていても、分かっているだけでは何にもならぬのであります。この道を習って行かなければ、その道の尊さは現れて来ないのであります。 どんな立派な手本があっても、それを習はなかったら何にもならないのであります。それを習うか…

神一条の道 一

神一条の道と云うのは、人間心でないものを云うのであります。すべて何事を見ていても聞いてもそこに神を見出すと云うのが、即ち神一条であります。たとへ野の花草の一葉を見てもそこに神を見出す。又家庭の事情を見て、身上の障りを見てもそこに神を見出す…

一つの理 五

こういう理は、一寸分かりにくい様でありますが、要するに誠一条の道より無いのであります。術もいらなければ法も要らない。誠一つの理が心に治まったならば、その誠の心に、天の理が映るのであります。人間から云へば、浮かんでくるのであります。それを人…

一つの理 四(一)

こう云って来ますると、お道は大変難しいように思われましょうが、難の道でなくして人間の心であります。神様も成人なかばに、思案という理が出かけてはならんと仰せられていいます。この思案というのが人間心で、この心が道を通り誤ませるのであります。難…

一つの理三

なおこの理合をわかり易く云へば、通るべき道は様々でありますが、その中で一番近い道は真実の道であります。一つの点か一つの点に至る最も近道は点と点の間をつなぐ直線であります。お道教えはこの直線であります。 所がこの道を通りますには、二つ以上の心…

一つの理二(二)

この御屋敷を、教祖は八方神の治まる所と仰せになっています。けれども参拝する人の心が、澄んだ誠でなかったならば、神様の結構な理も見せて頂けないのであります。それは唯、表面に顕れている建物や人を見るだけであります。それでありますから、この道は…

一つの理二(一)

一体この世の中は、神様が御支配下されるのであって、神様は人間に決して嘘を仰せられる様なことはないのですが、人間の心に真実が無いから、神様の御言葉が嘘に聞こえたり、お働きが見分けられないのであります。心に真実が宿ってくれたならば、神の働きも…

一つの理一(二)

そうすると、絶対とはどういうことあるかと云へば、これを平たく申せば是が非でもこうならなけばならいのが絶対で、これを早くわかる様に云へば、比べるものがない無二の唯一が絶対であります。 この唯一無二の一点に心を置いて、如何なることが起こっても、…

一つの理一(一)

この道は天の理を取ぐ次ぐのでありますから、話を聞けば、皆さんは成程と思われるのでありすが、さて物に当り、事に触れて実行する段になると、なかなか話通りに行えなのものであります。この世には、神様がいつもお働き下れているのであります。その理が教…

寸言禄(二)

ある教会の信徒に、永らく精髄を患って起きられない人があった。そこへお助けに行った人が、詰所の建築の話をして「あなたの詰所の普請に力を入れたらどうです。何千人の人が助かるとも知れないことだが」とったのである。 病人も人が助かって下さることなら…

寸言禄(一)

教会を盛にしようと思へば、皆が喜び勇んで通って居れば、独りでに盛になって来る。小むつかしいことを云うからいけない。この頃の此の教会を見てもよく分かるが、会議も何もせないが、段々盛になって来ている。 小むつかしいことを云うから折合いがわるくな…

断片の話(五)

人間がいづむと云うのは、神様と人間との間に曇りがあるからである。この曇りを取り去らなければ、人間は神様と共に暮らすと云う境涯に入ることは出来ないのである。この曇をのぞくには、私等は自分自身のことについては一切考へずに、神様に喜んで頂くと云…

断片の話(四)

人間の心を汚くするものは、人間心と、物心とである。人間心とは、人を相手にして生活を律しようとするこゝろであって、物心とは、物ばかりに目をつけて暮らし行こうする心である。この人間心と物心とがお互いの心から離れない内は、どうしても教祖の道を通…

断片の話(三)

人間は、ただ単に生きると云うことだけが結構ならば、何も信仰をする必要はないのである。太陽がどんな物にも一様の光をかけて下さる様に、神様も誰彼の差別なく絶えず御守護をして下さっているのであり、けれども、神様の命令をすなおに聞き、真面目に道の…

感想(二)

近代の人は伝統を悪く見たがる傾向がある。然し伝統そのものは決して悪いものではない。寧ろそれが伝統化されているだけ、その当時に於ては価値のあったものと見なければならない。所が後世になると、その内容が失はれて形式だけば伝統化して来る。従って少…

感想(一)

人間と人間とが相接触する機会は、社会が開花されて行く程複雑になって来る。従ってその接触の仕方が昔とは次第に異なって来る。昔は一村乃至は近郷の人々と接触するに過ぎなかったから、接触の範囲は狭かったが、その接触には深味があった。然るに近頃は接…