それでは、そんな信仰はどうして得られえるか云へば、人々が或苦痛を感じている時は、多く得られるものであります。苦痛には肉体的苦痛と、精神的の苦痛がありますが、要するに一身の苦悶の時とか、一家の不和な時とかにホッと感ずるものであります。あるものは研究によって信仰に入ると云いますが、それは本当ではありません。苦痛がなくては、真に信仰に、入ることが出来ません。しかもその苦痛が多ければ多い程、その感じ方が大きいのであります。しかし苦痛を感じて信仰に入ることは、宗教に救われる第一歩でありますが、決してその宗教の全体ではありません。
多くの教会の中では、お助けをすればそれで良いと定め込んでいる所がありますが、それは大きな間違いでありまして、お助けはまだ宗教の初歩であります。丁度門を開けて入ったばかりの様なものであって、それから次第に信仰の経路を辿るのであります。
故に信仰と云うものは、決して固定したものではなく、常に変化するものであります。これを教祖は「道すがら」と仰せられてあります。又年限とも仰せられています。これを教祖について云へば、教祖が神懸りあらせらえた時が、私等の御話を聞いてホッと感じた時に当るのであって、教祖はこれから信仰的の生涯をお通りなさったのであります。
この道すがらをよく解るように書き残されたが、御神楽歌の一下り目であります。その中に教祖は色々のことを、お説きになって居られますが、お道の者はどこまでも忍耐して、途中で倒れない様にしなければ駄目であります。終りの決勝点まで足納せなければ何にもなりません。
教組はこのことを、例へ話をもってお説きになっておらえれます。初めてこの道へ入って信仰するのは、例へて云へば、百間もある金の延金で造った橋を渡る様なものである。この橋はよい橋だ、渡って見よう思って渡りかけると金であるからシナ/\して途中で皆落ちてしまいます。だがこの時に心定めをする、心が定まれば身体が定まる。身体が定まれば向うが見える。向こうが見えて、始めてこの橋を渡り越すことが出来るのであります。その橋を渡ると、その先に赤土の嶮しい山があります。その山に登らなければならない。しかし赤土ではあるし、非常に嶮しいため登りにくいのであります。この時神様は上からジット、その登って来る人の心を御覧になっているのであります。そして登りにくい山を登らねばならんと、一生懸命になっているものには、神様は上からお助けの綱をさげて下されるのであります。この綱にすがって引き上げて貰うと、その山の上には千石の倉があります。こゝで来たならばもう大丈夫である、難儀しとうても難儀は出来ない様になると仰せらえてあります。これが信仰の経路であります。
★十柱の神々の守護の理と御心を知るとが大開運と健康増大に直結する。
⇒十柱の神の守護の理と八つのほこり
★【門外不出資料】
教祖140年祭、三年千日記念
★大正時代の別席講和(国々所処の手本となることが用木の目指す心得)
信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
★天の理
★大平良平資料集
★神の古記
★このやしきもとのかみ/\でてるから
にんげんはじめもとのいんねん⇒第八号欠損しているお筆先の意味とは
★お金と信仰について 百万のものを持ってくるより一厘の心を受けとる。(中山みきの神言集より)
☆やまと探訪☆
NEW★月日神社
☆お筆先第6号52番 伊弉諾と伊弉冊は一の神 これ天照皇の大神宮の解釈
★10月26日秋の大祭記念→十柱の神の御心と御守護
※元の神、実の神々と出会う処→ふるのさとへ!