ですからお助けをするものは、皆霊救を得ることを考へなければならないのでありますが、霊救は誰でも受けたいが仲々そうは行きません。神様は汚れた所へは行かんと仰せられますが、人間でも汚い処へ泊るのは厭であります。
清くして置けば入り易いのです。神様に入り込んで頂いたら、浮かぶことが皆助かる理になるのであります。助けにやならんと云うことは、助かたねばならんと云うことになります。この人だけを助けねばならんと云う理屈はありません。この人が死んだら、教会の工合が悪いなどと云う、そんな助け方は何もなりません。この人と特別に定めて助けねばならん人はない筈であります。神様に入り込んで頂いたら、知らぬ間に人が助かるのであります。
浮ぶ理が天の理である、と神様は仰せられています。善悪何れにしても、浮かんで来たものが本当のものであります。それにこの人だけと一生懸命になるのは、理があるには相違ありませが、その裏には善くない考えがあります。私の部下の教会の人で、この人はこう/\云う偉い人であるから、是非助けて頂きたいと云って、願いに来ることがありすが、神様にお願いするのに、何歳の男、何歳の女の外は何も云うことは要らないのであります。それに余計なことを言って、俺の心を曇らすのかと言って、叱り付かたこともありますが、私もやっぱり人間でありますから、大臣や知事やと云うと、その位について考えるのであります。しかしこれは、位を助けなければならぬのでなく、助けねばならぬのは、その人の心であります。その人のが、地位などの拘束されない様になったら、皆助かって行くのであります。
要するに人間は心さへ助かれば、それで総べて助かるのであります。無論神の心と私等の心とは、大分に離れては居りますが、人間の心が澄み切りさへすれば、神の心がうつる様になって来るのであります。
前にこんな話がありました。私が汽車に乗って話をしていると、その話を側で聞いていた人が、私等のしている話によってその人が助かったと云って禮に来たことがあります。今でも私が話をしているのを聴いた皆様が、そうだなあと思われたら、それで助かるのであります。こちらで助けたいと思はなくても助けることになるのであります。私の処へ禮に来られる人に、どんな話を聞いて助かったと尋ねると、これこれの話を聞いたと云はれます。何も私に神様が入り込んで居られる訳ではないが、そうなって来るのであります。
話には別に変わりはないが、そこに神様が入り込んで下るのであります。神様に働いて貰へる様な、神様が働かれる様な、話をする様にならなければなりません。ですから今後の本教は、本当の誠の心かではないと、通る
ことが出来ないのであります。
★十柱の神々の守護の理と御心を知るとが大開運と健康増大に直結する。
⇒十柱の神の守護の理と八つのほこり
★【門外不出資料】
教祖140年祭、三年千日記念
★大正時代の別席講和(国々所処の手本となることが用木の目指す心得)
信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。
★天の理
★大平良平資料集
★神の古記
★このやしきもとのかみ/\でてるから
にんげんはじめもとのいんねん⇒第八号欠損しているお筆先の意味とは
★お金と信仰について 百万のものを持ってくるより一厘の心を受けとる。(中山みきの神言集より)
☆やまと探訪☆
NEW★月日神社
☆お筆先第6号52番 伊弉諾と伊弉冊は一の神 これ天照皇の大神宮の解釈
★10月26日秋の大祭記念→十柱の神の御心と御守護
※元の神、実の神々と出会う処→ふるのさとへ!