増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

十柱の神

地場を辞する人々へ(四)

所で、学校を卒業せられたら、夫々国所へ出て布教をして貰はねばならないのでありますが、今までやって来た様な布教の仕方をして居って貰っては困ります。何故ならば、神様は「三年経てば遠慮気兼は要らぬ」と仰せられています。これまでは、お道の人は、世…

神の守護(五)

心を合せて喜んで道を通れば、神様も喜んで働いて下さるのでありますが、成らん様なことでも、神様の御守護で出来るのであります。人間は成ることは誰でもする様に思いますが、道は成りそうなことが成らず、ならんことが成って来るのでありますが、そこに神…

神の守護(四)

人はよく慾を取って終うと云うことを言って居ますが、慾は取れるものではないのであって、慾は忘たらよいのであります。神様も慾を捨てよとは云って居られない。御神楽歌の中にも「慾を忘れてひのきしん」と仰せられていますが、実際は慾は取ろうしても取れ…

神の守護(二)

信仰の経路から申しますと、最初は貸物借物の理を聞かして貰うのでありますが、貸物借物の理に次いで、心一つが我がの理であると云うことを聞かして貰うのであります。そしてこれが悟れたら、因縁を自覚させて頂くことが出来るのであります。自分と云うもの…

年限の理(五)

知ると云うことと感ずる云うこととは大変意味が違います。教祖の御言葉でも、それを知るのは誰でもすぐ知ることが出来ます。けれども本当に教理を感ずるのには、一つの教理でも十年位はかゝるのであります。 そこでこのお道は「年限の道」と仰せられてありま…

年限の理(二)

それでは、そんな信仰はどうして得られえるか云へば、人々が或苦痛を感じている時は、多く得られるものであります。苦痛には肉体的苦痛と、精神的の苦痛がありますが、要するに一身の苦悶の時とか、一家の不和な時とかにホッと感ずるものであります。あるも…

年限の理(一)

信仰と云うのは、一口に申しますと、神様を渇仰し信頼することでありますが、神様は形のないものでありますから、五官に触れて覚ることは出来ません。その分からぬ神を信仰すると云うことは、普通の考では会得出来ないことであります。ですから昔から信仰は…

一つの理 四(一)

こう云って来ますると、お道は大変難しいように思われましょうが、難の道でなくして人間の心であります。神様も成人なかばに、思案という理が出かけてはならんと仰せられていいます。この思案というのが人間心で、この心が道を通り誤ませるのであります。難…

一つの理一(一)

この道は天の理を取ぐ次ぐのでありますから、話を聞けば、皆さんは成程と思われるのでありすが、さて物に当り、事に触れて実行する段になると、なかなか話通りに行えなのものであります。この世には、神様がいつもお働き下れているのであります。その理が教…

断片の話(五)

人間がいづむと云うのは、神様と人間との間に曇りがあるからである。この曇りを取り去らなければ、人間は神様と共に暮らすと云う境涯に入ることは出来ないのである。この曇をのぞくには、私等は自分自身のことについては一切考へずに、神様に喜んで頂くと云…

立教の意義及び組織(二)

けれども信仰の中心制度になるべき教会組織に至っては、以前の元のまゝに制度と踏襲して、大教会、教会、分教会、の如き外形的要素には多少の変遷はあったとはいへ、その根本的組織に於ては、全然如如等の変革をも見ず、そのまゝ今日まで推進して来たのであ…

立教の意義及び組織(一)

本教のその立教の目的に於て、一は世の立替を標榜し、一は地場の理を現す、即ち親里の理を表現しているのである。 この二つの目的は、神意の上に於ては、同一の性質を有しているものであって、道はこの二つの目的を如実に実現し、完成せんがために開かれたも…

閃光禄(二)

又神様は「神の方には倍の力や」仰せられているから、どんな場合でもビク/\したり、心配をしたりすることはないのである。けれども少しむつかしいことや、恐ろしいことに出会うと、よくビク/\するものである。だがそんなことでは神様が安心して入り込む…

理の光 神意と人心(三)

神様は、時代々々の人心の傾向に応じて、種々な手段を以てこの道をお広め下さるのである。道は必ず善でなければ広まらんという訳ものものではなので、悪でも道を広めることは出来るのである。それは丁度親が可愛い子供の頭を打つ様なものであって、頭を打つ…

理の光 神意と人心(二)

神様の思召と、人間の考へとは兎角違うものである。人間の考えでこれが好かろうと思っていても、神様の御考へではそうでない時がある。このことは教祖が御昇天せられた時のことを思うとよく分かるのである。神様はその時に高弟の方々に対して「扉を開いて世…

理の光 神意と人心(一)

この道は、神の深い思召によって成立ったのであるから、なにごとに拘わらず、神が蔭とないひなたとなってお廣め下されているのである。決して人間が人間心を以て、どうしようと思っても出来ないのである。それでこの道と神様とは、如何なる場合でも離れるこ…

不弱不死(二)

以上二つは誰しも其の可能を、教理的に会得出来るとしても、今一つ死なずと云う事は容易に分からん事なのであります。それは世界の心が澄んで、甘露台が置かれたならば、人間の定命が百十五才に定められると云う事は、聞いて居ります。又それから先は心次第…

不弱不死

此の道は萬助けの道でありますから、何助けられんと云う事は仰せられぬのであります。人間も心次第に依っては、どんな珍らし不思議な助けをして下さるのであります。 即ち人間が真実の心になって願へば、真実の心相応の理は見せて下さるのであります。其の中…

往還の道(二)

それで或時には信徒の人々に対しては、奈良初瀬七里の間が都会になる事につて、妾にはそうなるのが見えて居るが、お前等には見えないかと仰せになった事があります。斯様に御教祖には百年以後の事までも、眼の前に在るかの様に見えて居たのであります。 然し…

往還の道(一)

御教祖の御在世中に、此の道に付かれた人々は、教理が理解出来たから、此の道へ付いて来られたのではありません。なぜなら教祖の仰せられることは、現在の事もあれば十年廿年若しくは百年後の事もあるのではありますから、それを理解した上でなければ、信仰…

一夜の間にも(二)

人間と神様ともやはり其の通りで、其の心さへ立てかえて、神様の思召通りになれば、神様は直ちに御許し下さるのであります。若し人間がして来ただけの事をして返さなければ、神様の御許しが頂けないと云うのであったならば、人間は現世だけでなく、生れ変り…

一夜の間にも(一)

多くの御道の人の中には、斯う云う心を持って居る人があります。それは自分は今日迄に、悪い行いをして来たのであるから、中々好い心にはなれないと思い込んで居る事であります。是は一寸考えたら、その通りであります。即ち因縁の深い者は、其の因縁を返さ…

神の受取(二)

なぜなら此の世界にありとあらゆるものは、皆神様が人間に御貸し下されて居るのでありますから、云いかへれば皆神様のものであります。それらのものを差し上げたからと云うでも、それは要するに返した迄であって、差し上げたと云うことは云えないのでありま…

神の受取(一)

神様の人間とは違って、たとへ千里隔って居ようとも、理が通っているのありますから、心通り皆映って居るのあります。人間の方から云へば、例えどんな寒村僻地に居ようとも又如何に人の眼に付かない所で心を使うても、それは恰も鏡に物の映る様に、神様の御…

甘露台は宝

石造り甘露台 寿命薬 甘露がふる 中山みき 凡そ人として自分の生命が、一日でも長く此の世にある様に、願はぬ人はないのであります。死を望んいる仏教の信者でも、さて今死なねばならぬ時は、必ず死を恐れて医者に治癒せられんことを欲するのであります。こ…

神の透見(二)

そこで人間は外に向かって居る眼を内に転じて、その心の底にある鏡に映る自分の姿を見なければならぬのであります。左様すると人々が、表でしている事の裏は、どういう事であるかと云う事が、明らかに分かって来るのであります。すると神様が人間を御覧にな…

神の透見(一)

人間の眼と云うものは妙なもので、暗い所からは明るい所がよく見えまするが、明るい所からは暗い所が中々見えないものであります。日中に都会の小路を通りますると、簾でもつるしてあると、外から内の様子は少しも分からぬのでありますが、夜は家の内へ電灯…

神の働(二)

人間自身の知って居る事は云う迄もなく、自分で思うたか思わぬか分からぬ様な事までも、神様には分かっているのであります。又人間が自分がして忘れてしもうて居ることでも、神様には分かって居るのであります。 例えば人間が人に対して、悪意を持ってしまっ…

神の働(一)

人間の身上は云う迄もなく、神様からの借物でありますが、借物ばかりであっても、其の身の内へ神様が入り込んで、御働き下さらなかったら、何にもならんのであります。 身の内に温み水気の御守護から、吸う息出す息の御守護を下されて居るから、生きて行ける…

神の見定め(一)

身上は神様から人間が、貸し与へて頂いて居るものでありますが、心一つは我が理でありますから、自分の思う様に使へるのであります。即ち好い方へ使おうと、悪い方へ使おうと、人間に自由にお与え下されて居るのであります。 この自由を神様から人間が頂いて…