教会長の責務
世界の難が、お道の栄になるのであります。と云って世界の節を持つ訳ではありませんが、今までの歴史がそうなっているのでありあます。 天変地異と云うことも、神様が多くの人に何物が覚醒の道を与えておられるのであります。その時道の力が、人の胸に映って…
例へば会長の云われたことが、よし嘘であっても、その通りに行ったならば神様は「嘘でも誠として受取ってやろう」と仰せられている。だから人を目標とせずに、理を見て行かねばならない。それで会長の云はれることは、一時的のものではいと思って、腹の中の…
何故ならそれは、四十年祭の大切な時に、一手一つになって働くことが出来なかった事実を裏書している様に思われるからであります。しかし四十年祭に一生懸命に働かなかった教会は、今日都合がよい様になっています。言葉を換へて云へば、勢力にあらん限り気…
本教で一番困っているのは、布教のできない所長さんの教会であります。これは教会の屑であります。所でこう云う状態にあると云うのは、神様のどんな思召であるから、私等の活動の元は神様のあるのでありから、先づこれをよく研究せなければならぬのでありま…
NEW★立教187年春季大祭記念 高井家資料(更新中) 神さまの一番お嫌いな心使いとは(高井家資料より抜粋) 神様は「うそ」と「ついしょう」大きらい、欲に高慢、これきらい、と仰しゃる。 八つの埃(ほし、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、こうま…
この様に、教会や教師の精神に、根本的な大きな相違があるのでありまして殊にこの傾向は四十年祭提唱と同時に、著しく現れて来たのであります。今日の教会や教師は、精神と理の上に充実性がない、未完成の教会未完成の教師であります。これは与へなくして教…
これは四十年祭に対して大きな働きをした後の、当然の疲労であるからも知れませんが、決して望ましいこととは云へないのであります。道を通るものは、誰でも教会は盛大になる様に、沢山の信徒が出来る様にと、乞ひ願はないものはないでせうが、それに引きか…
この様に、今日まで左程に思はれなかった本教が、突然社会に頭角を現はしたのでありますから、社会人は一斉に脅威の眼を見張ったのであります。このことは本教々徒としては誠に喜ばしいことでありますが、又一面より云へば、ものの力は堅められる程強く、拡…
現在のお道は最も大切なことは、四十年祭後の道を如何にして通らせて頂かと云うことであります。それで年祭後の方針と云った様なことを、暫くお話したいと思ひます。 御本部では、本年一月に教祖四十年祭を執行されてして予想以上の盛大裡に終了したのであり…
信仰と云うものは、私が今更申し上げる迄もなく、日に新たなる力を作るものでなければならないのであります。然るに斯くの如く疲労の色を現はし始めたと云うことは、新たなる力を作るべき信仰が無くなりかけたことでありまして信仰の堕落を物語っているので…
この転換期に当たって各教会と見てみますに、一般に過去三ヶ年の活動によって、稍疲労してをる様な傾が見受けられるのであります。これは現在における、天理教一般の教勢の如く、考へられているのでありますが、これは何がためであるかと云へば、云うまでも…
こう考へて来ますと、教会長がその使命を自覚しうるということは、一面にこの何でもという心を呼び起こすことでもあり、又一面手本雛形となって通って行くことであります。又それでこそ、成程の人や成程の理やと云われて、神様に受取って頂く道が出来るので…
所でかの如き自覚は、何に基礎をおいて構成されるか云へば、それは申すまでもなく、一教会の統治者である所の教会長の自覚に俟たねばなりません。 御承知の如く教会長と云うものは、信徒教徒また教師などの信仰を指導し誘導して、これを保育養成して行くので…
教会は五割或はそれ以上の急激な事をもって、短時日の間に発達して来たのであります。しかしこの傾向がいつまでも続くものではありません。ある時期になれば、これを内面的に、内容の充実を図らねばならない時に出会うのであります。そうして現在は、正にそ…
四十年が提唱さられましてから、本教の教内は俄かに活気を呈し、未だかって見なかったところの、緊張味を現して来たのであります。何処から云い出されたのか、兎に角倍加運動と云う声と共に、教会及び教師の数の増加は、約五割と云う驚くべき倍加率を示して…