増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

親神教理

地場を辞する人々へ(五)

「用木に神が入り込む」と神様は仰せられています。心に神が入り込んで働いて下さるのでありますから、人間思案の及ばぬことが見えて来るのは、何も不思議ではないのであります。所で、神様に入り込んで働いて貰はうとすには、此方の心を綺麗に掃除して置か…

神一条の道 二(二)

ある時にある人が、暑い日の照っている時に、傘を以て高下駄をはいて外出したのであります。それを見た人々は、この好天気歩く傘を持って高下駄をはいて歩く人がると云って笑っていたのであります。所が今まで良かった天気ががらりと変って、大粒の雨が降っ…

神一条の道 二(一)

この教祖五十年の道が分かっていても、分かっているだけでは何にもならぬのであります。この道を習って行かなければ、その道の尊さは現れて来ないのであります。 どんな立派な手本があっても、それを習はなかったら何にもならないのであります。それを習うか…

神一条の道 一

神一条の道と云うのは、人間心でないものを云うのであります。すべて何事を見ていても聞いてもそこに神を見出すと云うのが、即ち神一条であります。たとへ野の花草の一葉を見てもそこに神を見出す。又家庭の事情を見て、身上の障りを見てもそこに神を見出す…

一つの理二(二)

この御屋敷を、教祖は八方神の治まる所と仰せになっています。けれども参拝する人の心が、澄んだ誠でなかったならば、神様の結構な理も見せて頂けないのであります。それは唯、表面に顕れている建物や人を見るだけであります。それでありますから、この道は…

一つの理二(一)

一体この世の中は、神様が御支配下されるのであって、神様は人間に決して嘘を仰せられる様なことはないのですが、人間の心に真実が無いから、神様の御言葉が嘘に聞こえたり、お働きが見分けられないのであります。心に真実が宿ってくれたならば、神の働きも…

寸言禄(二)

ある教会の信徒に、永らく精髄を患って起きられない人があった。そこへお助けに行った人が、詰所の建築の話をして「あなたの詰所の普請に力を入れたらどうです。何千人の人が助かるとも知れないことだが」とったのである。 病人も人が助かって下さることなら…

寸言禄(一)

教会を盛にしようと思へば、皆が喜び勇んで通って居れば、独りでに盛になって来る。小むつかしいことを云うからいけない。この頃の此の教会を見てもよく分かるが、会議も何もせないが、段々盛になって来ている。 小むつかしいことを云うから折合いがわるくな…

断片の話(五)

人間がいづむと云うのは、神様と人間との間に曇りがあるからである。この曇りを取り去らなければ、人間は神様と共に暮らすと云う境涯に入ることは出来ないのである。この曇をのぞくには、私等は自分自身のことについては一切考へずに、神様に喜んで頂くと云…

断片の話(四)

人間の心を汚くするものは、人間心と、物心とである。人間心とは、人を相手にして生活を律しようとするこゝろであって、物心とは、物ばかりに目をつけて暮らし行こうする心である。この人間心と物心とがお互いの心から離れない内は、どうしても教祖の道を通…

断片の話(三)

人間は、ただ単に生きると云うことだけが結構ならば、何も信仰をする必要はないのである。太陽がどんな物にも一様の光をかけて下さる様に、神様も誰彼の差別なく絶えず御守護をして下さっているのであり、けれども、神様の命令をすなおに聞き、真面目に道の…

断片の話(二)

人間がお互いに、自ら積んだ埃のために死なねばならないのは当然のことである。これは当り前のことなのであるけれども、人間は死んでは困るからと云って、神様に無理なお願いをして、この世に置いて頂きたいと頼むのである。 私等はこの無理な願いを神様に叶…

断片の話(一)

お話と云うものは、お互が道を通るに当って、実地で行うために聞かして頂くのである。百万言のお話も、結局めい/\の心の誠の心を出さんが為である。それだけ沢山の話を覚えたからと云って、それで神様の御守護が特別にあると云う訳のものではない。その人…

感想(二)

近代の人は伝統を悪く見たがる傾向がある。然し伝統そのものは決して悪いものではない。寧ろそれが伝統化されているだけ、その当時に於ては価値のあったものと見なければならない。所が後世になると、その内容が失はれて形式だけば伝統化して来る。従って少…

感想(一)

人間と人間とが相接触する機会は、社会が開花されて行く程複雑になって来る。従ってその接触の仕方が昔とは次第に異なって来る。昔は一村乃至は近郷の人々と接触するに過ぎなかったから、接触の範囲は狭かったが、その接触には深味があった。然るに近頃は接…

立教の意義及び組織(一)

本教のその立教の目的に於て、一は世の立替を標榜し、一は地場の理を現す、即ち親里の理を表現しているのである。 この二つの目的は、神意の上に於ては、同一の性質を有しているものであって、道はこの二つの目的を如実に実現し、完成せんがために開かれたも…

理の光 神意と人心(三)

神様は、時代々々の人心の傾向に応じて、種々な手段を以てこの道をお広め下さるのである。道は必ず善でなければ広まらんという訳ものものではなので、悪でも道を広めることは出来るのである。それは丁度親が可愛い子供の頭を打つ様なものであって、頭を打つ…

理の光 神意と人心(二)

神様の思召と、人間の考へとは兎角違うものである。人間の考えでこれが好かろうと思っていても、神様の御考へではそうでない時がある。このことは教祖が御昇天せられた時のことを思うとよく分かるのである。神様はその時に高弟の方々に対して「扉を開いて世…

理の光 神意と人心(一)

この道は、神の深い思召によって成立ったのであるから、なにごとに拘わらず、神が蔭とないひなたとなってお廣め下されているのである。決して人間が人間心を以て、どうしようと思っても出来ないのである。それでこの道と神様とは、如何なる場合でも離れるこ…

不弱不死(二)

以上二つは誰しも其の可能を、教理的に会得出来るとしても、今一つ死なずと云う事は容易に分からん事なのであります。それは世界の心が澄んで、甘露台が置かれたならば、人間の定命が百十五才に定められると云う事は、聞いて居ります。又それから先は心次第…

不弱不死

此の道は萬助けの道でありますから、何助けられんと云う事は仰せられぬのであります。人間も心次第に依っては、どんな珍らし不思議な助けをして下さるのであります。 即ち人間が真実の心になって願へば、真実の心相応の理は見せて下さるのであります。其の中…

往還の道(二)

それで或時には信徒の人々に対しては、奈良初瀬七里の間が都会になる事につて、妾にはそうなるのが見えて居るが、お前等には見えないかと仰せになった事があります。斯様に御教祖には百年以後の事までも、眼の前に在るかの様に見えて居たのであります。 然し…

往還の道(一)

御教祖の御在世中に、此の道に付かれた人々は、教理が理解出来たから、此の道へ付いて来られたのではありません。なぜなら教祖の仰せられることは、現在の事もあれば十年廿年若しくは百年後の事もあるのではありますから、それを理解した上でなければ、信仰…

神の透見(二)

そこで人間は外に向かって居る眼を内に転じて、その心の底にある鏡に映る自分の姿を見なければならぬのであります。左様すると人々が、表でしている事の裏は、どういう事であるかと云う事が、明らかに分かって来るのであります。すると神様が人間を御覧にな…

神の透見(一)

人間の眼と云うものは妙なもので、暗い所からは明るい所がよく見えまするが、明るい所からは暗い所が中々見えないものであります。日中に都会の小路を通りますると、簾でもつるしてあると、外から内の様子は少しも分からぬのでありますが、夜は家の内へ電灯…

神の働(二)

人間自身の知って居る事は云う迄もなく、自分で思うたか思わぬか分からぬ様な事までも、神様には分かっているのであります。又人間が自分がして忘れてしもうて居ることでも、神様には分かって居るのであります。 例えば人間が人に対して、悪意を持ってしまっ…

神の働(一)

人間の身上は云う迄もなく、神様からの借物でありますが、借物ばかりであっても、其の身の内へ神様が入り込んで、御働き下さらなかったら、何にもならんのであります。 身の内に温み水気の御守護から、吸う息出す息の御守護を下されて居るから、生きて行ける…

神の見定め(二)

親が子の将来を思うて、子供が未だ小学校へ通うて居る時から、行く末では大学まで入れてやろうと、其の学資を準備して、子供の成人を待ち兼ねて居ても、親の心子知らずで、少しも勉強もせなければ、学校へ行っても落第する。 悪い友達を作って、悪い所へ遊び…

神の見定め(一)

身上は神様から人間が、貸し与へて頂いて居るものでありますが、心一つは我が理でありますから、自分の思う様に使へるのであります。即ち好い方へ使おうと、悪い方へ使おうと、人間に自由にお与え下されて居るのであります。 この自由を神様から人間が頂いて…

死と決心(二)

これを良く分かる事柄について申しましたら、神様の御話を聞いて、慾の心持って通ると云うのは、大変間違った心使いである事が分かって居ても、どうしてもそれを取る気になれない。こゝで、一寸云うて置かねばならぬことは、此の事は悪い事だと知る事と、悪…