増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

誠真実

地場への心(二)

教祖四十年祭が提唱されて以来、倍加運動が叫ばれ、全天理教はこの本部の声に対して、渾身の努力をして来ましたので、今や凡そ倍加に近くなっているのであります。しかるに山名はこの運動に遥かに後れてはないだろかと思ふのであります。名京分離の節があっ…

地場を辞する人々へ(五)

「用木に神が入り込む」と神様は仰せられています。心に神が入り込んで働いて下さるのでありますから、人間思案の及ばぬことが見えて来るのは、何も不思議ではないのであります。所で、神様に入り込んで働いて貰はうとすには、此方の心を綺麗に掃除して置か…

地場を辞する人々へ(三)

この希望の光りある中に、皆様が世上のことを止めて、教校へ這入って来られたと云うことには、大へん大きな意義があります。皆様には、皆様個人としての意義があるのであります。同時に神様としても、又大きな思召があるだろうと思います。 一体この御地場と…

信仰の向上(二)

(二) 人のことを聞いてそれを気にしているより、仲良く暮した方がいくら良いか判りません。疑いや誤解と云うこと程、怖ろしいことはありません。誤解からは色々な間違いが出来るのであります。それを取去った心が極楽であります。心の底から喜びが出来るの…

信仰の向上(一)

宗教と云うものは、形の上からどうせよかうせよと、やかましく云う様なことでは、本当のものではありません。黙っていて、それが出来て来るの本当であります。 世の中のこともそうであって、皆目に見えぬ処から出来て来ているのであります。人間もその通りで…

神一条の道 三(一)

教会の発達と云うことも、つまり御地場に尽した理が現れて来るのであります。又地場は教祖五十年の理の伏せ込んである所でありますから、お地場に現れて来ることは、みな神様がおさせになるのであります。 神様は「屋敷から打出す言葉は天の言葉」と仰せられ…

神一条の道 一(二)

外に道を求めるのではなく、目に見えぬ心の中に求むべきであります。目に見える世界の道はいくらでもあります。けれども一名一人限りの心を運ぶ道、神に到達する心の道はただ一つのであります。そこでこの道はうわべの道ではありません。心一つを治めて行く…

一つの理 五

こういう理は、一寸分かりにくい様でありますが、要するに誠一条の道より無いのであります。術もいらなければ法も要らない。誠一つの理が心に治まったならば、その誠の心に、天の理が映るのであります。人間から云へば、浮かんでくるのであります。それを人…

一つの理三

なおこの理合をわかり易く云へば、通るべき道は様々でありますが、その中で一番近い道は真実の道であります。一つの点か一つの点に至る最も近道は点と点の間をつなぐ直線であります。お道教えはこの直線であります。 所がこの道を通りますには、二つ以上の心…

一つの理二(二)

この御屋敷を、教祖は八方神の治まる所と仰せになっています。けれども参拝する人の心が、澄んだ誠でなかったならば、神様の結構な理も見せて頂けないのであります。それは唯、表面に顕れている建物や人を見るだけであります。それでありますから、この道は…

一つの理二(一)

一体この世の中は、神様が御支配下されるのであって、神様は人間に決して嘘を仰せられる様なことはないのですが、人間の心に真実が無いから、神様の御言葉が嘘に聞こえたり、お働きが見分けられないのであります。心に真実が宿ってくれたならば、神の働きも…

断片の話(五)

人間がいづむと云うのは、神様と人間との間に曇りがあるからである。この曇りを取り去らなければ、人間は神様と共に暮らすと云う境涯に入ることは出来ないのである。この曇をのぞくには、私等は自分自身のことについては一切考へずに、神様に喜んで頂くと云…

断片の話(四)

人間の心を汚くするものは、人間心と、物心とである。人間心とは、人を相手にして生活を律しようとするこゝろであって、物心とは、物ばかりに目をつけて暮らし行こうする心である。この人間心と物心とがお互いの心から離れない内は、どうしても教祖の道を通…

断片の話(二)

人間がお互いに、自ら積んだ埃のために死なねばならないのは当然のことである。これは当り前のことなのであるけれども、人間は死んでは困るからと云って、神様に無理なお願いをして、この世に置いて頂きたいと頼むのである。 私等はこの無理な願いを神様に叶…

断片の話(一)

お話と云うものは、お互が道を通るに当って、実地で行うために聞かして頂くのである。百万言のお話も、結局めい/\の心の誠の心を出さんが為である。それだけ沢山の話を覚えたからと云って、それで神様の御守護が特別にあると云う訳のものではない。その人…