又同年、並松村の医者吉川という者と、奈良の金剛院やまぶしが反対に来た。然し何れも教祖に説破せられて帰った。
その後教祖の道が栄えると共に、迫害は四方から起こった。慶応元年六月、田村の法林寺の住職、田井庄の光蓮寺の番僧等来たりて弁難攻撃す、この時小寒子が相手をせられ。女性と見て侮り、刃を畳に突き刺して威嚇す。小寒子は少しも怖れず、論破せれるので理に詰まり、遂には太鼓を破り提灯を落とし畳を切るなどの乱暴を極めて引き取った。
また同年大和全国の神官取締である、守屋神社の社司守屋筑前が、本教の正体を見極めんと、威儀を正して訪れた。その時教祖は自ら接したもうた。守屋筑前は種々の質問を試みた所、教祖の答弁が水の流るる如く、口を突いて出るので大いに感服し、遂に公認を得て布教をせられよといい残して引き取った。
慶応二年秋の頃小泉村の不動院の祈祷者覚仁坊という者、若侍一人を連れて来る。秀司殿出て食い止めんとせられしも聞かず、神前に進んで騒がしかば、教祖出て座に就き覚仁坊と対せらる。
覚仁坊は教祖の答の淀みなきを見るや、問答無益と立ち上り、懐中より細引を取り出せしかば、左右にありし秀司殿と中山氏がその手を取りて引き留めるや、教祖は静かに身を隠したもうた。
若侍はこの時大刀を引き抜き、太鼓を打ち破ったり、小幟を切り倒したり乱暴を極め、覚仁坊は三本の御幣を没収して引きあぐると共に、古市陣屋の訴へ出た。翌日秀司殿が召喚され、以後神を祀るべからずと申し渡さる。
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