信仰の結晶たる勤場所の建築は、大和の一寒村たる当時の庄屋敷に於ける、驚異なる出来事であった。風説を生み、八方に匂掛けせらるると共に、霊救に浴する者はその数を増し、信者はその信仰を熱化して、助け一条のために奔走したのである。
巨木が大風に衝る如く、急激なる本教の布教は、他の反感を招くに至った。中傷に迫害に讒謗に、その発展を阻害せんと、神官や僧侶や医者が、種々なる手段を講じた。
慶応元年法林寺や光連寺の住職が来たのもその一つである。同年大和一国の神職取締である守屋筑前が来たのものその一つであり、小泉の不動院が白刃を提げて脅喝したのも亦その一つである。何れも明快な教祖の答弁に困じて立ちさったが、布教に対する迫害は、漸次激しくなった。
その間にあっても守屋筑前は本教の真価を認めたので、その悪意を翻すと共に、官許を得て布教すべしと勧告し、自ら古市村の代官、深谷氏に添書を書いた。
教祖の長男秀司氏は、これに領主の副申を得て、慶応三年七月、山澤氏随行、京都の神祇管領たる吉田家に出願した所、日ならずして許可書が下附せられた。かくして本教の布教は公認せられるるに至った。
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