増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

中山みき伝

神一条の道 三(二)

教組は御在世中に多くの人を助けておられるが、助けられたからと云って皆ついて来たかと言へば、殆どついて来なかった者ばかりだったのであります。ついて来た人は僅か二十人位に過ぎなかったのであります。 その二十人のものが教祖の精神を受けついで、道を…

神一条の道 三(一)

教会の発達と云うことも、つまり御地場に尽した理が現れて来るのであります。又地場は教祖五十年の理の伏せ込んである所でありますから、お地場に現れて来ることは、みな神様がおさせになるのであります。 神様は「屋敷から打出す言葉は天の言葉」と仰せられ…

神一条の道 二(二)

ある時にある人が、暑い日の照っている時に、傘を以て高下駄をはいて外出したのであります。それを見た人々は、この好天気歩く傘を持って高下駄をはいて歩く人がると云って笑っていたのであります。所が今まで良かった天気ががらりと変って、大粒の雨が降っ…

神一条の道 一(二)

外に道を求めるのではなく、目に見えぬ心の中に求むべきであります。目に見える世界の道はいくらでもあります。けれども一名一人限りの心を運ぶ道、神に到達する心の道はただ一つのであります。そこでこの道はうわべの道ではありません。心一つを治めて行く…

感想(一)

人間と人間とが相接触する機会は、社会が開花されて行く程複雑になって来る。従ってその接触の仕方が昔とは次第に異なって来る。昔は一村乃至は近郷の人々と接触するに過ぎなかったから、接触の範囲は狭かったが、その接触には深味があった。然るに近頃は接…

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(七)最終章

松尾芭蕉も多数の堂塔と桜が織りなす大和の日光とうたわれた名刹を訪れ、「うち山やとざましらずの花ざかり」と名句を残した この内山永久寺跡にたたずむと明治七年十二月、人類の母親・いざなみの命が転生した中山みきが、何故、歴代皇女が入寺していた山村…

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(六)

くにとこたちの命は釈迦如来、をもたりの命は阿弥陀如来、をふとのべの命は弘法大師等と転生していたのだ。それは魂振りの神の内、八柱の神々が仏となって各時代に現れ、民衆を正しき道に導いていたのであった。この驚嘆する事実を中山みきは天啓により弟子…

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(五)

石上神宮から徒歩15分ほどにある内山永久寺跡にある案内版から塔頭、鎮守社を含め70以上の建物が確認できる。礎石もなく、草木が生い茂る永久寺跡。多数の堂塔を擁し栄え、大和の日光とよばれた名刹であった。内山永久寺には、創建時からの建物が数多く残…

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(四)

大和の三大名刹と呼ばれていた桃尾山龍福寺、現在あるのは大親寺と寺名を変更している。天皇制神話(支配体制神話)の神武東征神話である「古事記」「日本書紀」にあらわれた神道を国体とするため、神武東征に先立ち、饒速日尊が降臨したと伝えられてきた桃…

十柱の神々と十種ノ神宝についての考察(三)

神道大祓祝詞集 十種大祓より原文を転写 排尾の山とは桃尾の山のこと饒速日尊は神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされる。それは現在の天理市、…

教祖略伝▪最終章 帰幽(三)  

御休息所内 奥の長四畳の間で教祖は九十年に及ぶ人間の母親であるいざなみの命としての神命を全うされ、自ら世界一列が救かる雛形の道を残したまい静かに御帰幽された 教祖は四、五の門弟と休息所に於て、この勇ましき神楽勤めの声を聞き、いと満足の様子で…

教祖略伝 帰幽(二)  

真柱の中山眞之亮は飯降伊蔵を通して、人間は法律に逆らうことできない、三ヵ条についてのお尋ねがあれば何と返答すればいいのかを伺うと「さあさあ月日ありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律あり…

教祖略伝 帰幽(一)

大三輪神を祀る大神教会。教会設置の設置に対しては、唯教祖が不快であらせらるるというのみであり、教祖がお隠れになるという重大な結末に至ることは、その時高弟子の誰も考え及ばなかった。 信徒が増加するに従って、教会設置の急は信者の胸に迫って来たの…

教祖略伝 干渉(七)  

教祖の履いておられた赤い下駄。教祖は拘留中、下駄を枕に極寒の夜を過ごし神命を貫徹された 明治十九年正月十五日、心勇講の一団参拝し、甘露台にてお勤めを願い出しも、教祖に迷惑かけてはとの心配、前館長は断然断られた。心勇講の人々は、止むなく豆腐屋…

教祖略伝 干渉(六)

氏神に集合してそれぞれの役割の神楽面を着け、背中には教祖より授けられし月日の紋を付け、いざなみの命といざなぎの命を中心に囲んで三島の四方で雨乞い勤めを行った 明治十六年七月十三日、大阪一円は旱魃にて、村民の困る所から雨乞を中山家に懇願して来…

教祖略伝 干渉(五)

奈良監獄所監房跡 同年十五年十月二日、丹波市分署より出張して、甘露台の石や教祖の衣類を没収した。又九月十八日神命により、神楽勤めを行いたるを違警罪に問われ、教祖の外五名の者が十日間奈良監獄処に拘留さられた。同年三十日秀司殿婦人松枝様が、この…

教祖略伝 干渉(四)

高野山真言宗に属し役行者を祀る金剛山地福寺 教祖は親が子供に認可を許される権道に依る方法を認めなかった 明治十三年頃には地場に帰来する信者益々多く、宿屋や蒸風呂では、十分人々が集まられぬ所から、乙木村の山本氏の勧めに従い、金剛山地福寺の出張…

教祖略伝 干渉(三)

蒸風呂が甘露台の真横で営業された 明治八年八月下旬、奈良県庁よりの命により、秀司殿同道出頭すべしと警官がやって来た。秀司殿風邪中に付き、辻氏代理として教祖に従い出かけ、参拝を禁ずるのみか、撲滅せんとの方針を採ったのである。これでは信徒が困難…

教祖略伝 干渉(二)

皇女や貴族の子女が門跡を務め、皇族に影響を持っていた寺院・山村御殿 この顛末が県庁に上申さられたと見え、同年十一月丹波市市役所より、教祖に山村御殿へ出頭するべき旨達さられた。これは教祖が憑物か否か、その正体を調べんために社寺係が採った手段で…

教祖略伝 干渉(一)

明治5年4月より教部省は「三条の御趣意」すなわち三条教則(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴朝旨遵守)という基本綱領を月に数度説教させ、天皇国家制度を民衆へ注入しており大和神社はその請負機関であったため、神主らは古代からある本来の由来の説明がで…

教祖略伝 教基(五)

八つの龍が降臨したとの伝説があり、石上神宮の奥の宮といわれている日の谷八つ岩等のイワクラが現存しピラミッド形状となってる、別名ニギハヤヒ山(国見山)と呼ばれていた滝本の山中で、教祖は自らが出向いて甘露台となる聖石を選ばれた 明治十四年の末に…

教祖略伝 教基(四)

かつての物部氏の拠点集落であった布留遺跡の祭場跡と調度重なっており、神々が人間を創造した場所に今後の信仰の中心拠点となる地場を定め、その証に甘露台が設置された明治八年の春、神の啓示により、地場の芯を定められた。この日中山家の屋敷内を、人々…

教祖略伝 教基(三)

わしが赤い着物を着ていりゃこそ世界明るいのや、わしが赤い着物を着なければ、世界暗闇やで、と語り、明治政府が強制した国家神道政策による元の神・実の神信仰に対する弾圧に対して、徹底抗戦を教祖自ら全身に赤衣を纏い表明された 明治六年教祖は飯降氏に…

教祖略伝 教基(二)

教祖直筆のお筆先 明治二年正月より、お筆先を起草しまたう。而来明治十四年第十七合を完成される迄、十二年間、夜な夜な行灯の下にて書き給うた。時には暗中にあって書きたまう事もあったが、その字体は少しも変わらなかった。 明治五年教祖は神命により、…

教祖略伝 教基(一)

当時お勤めで使用されていた拍子木 慶応二年以前のお勤めといへば、唯天理王命と神名を幾度となく唱えるに過ぎなかった。然るにこの年始めて悪しき払い助けたまへ天理王命と、祈祷の意とその手振りの形式を教へられ、朝夕の勤めに之を行うことになった。 翌…

教祖略伝 迫害(二)

小泉村の不動院 表に現れた元の神、実の神の真実の教えを前にしては威嚇するしかなすすべはなかった。 又同年、並松村の医者吉川という者と、奈良の金剛院やまぶしが反対に来た。然し何れも教祖に説破せられて帰った。 その後教祖の道が栄えると共に、迫害は…

教祖略伝 迫害(一)

大和神社鳥居内。棟上げの日の翌日は丁度、江戸幕府が神社を統制するための法令・諸社禰宜神主法度(ショシャネギカンヌシハット)に基づき全国の神社に対し、社領の売買禁止などのほか、吉田神道を正統としてその統制に服することを義務づており、それに基…

教祖略伝 布教(四)

教祖が授けた扇 この年四月八日大豆越の山中忠七方に赴かれ、扇の授けを御渡しになった。又三度安堵村に行かれたが、そのころ、近村より信仰に入る者が俄に増加したという。 慶応元年八月十九日、再び山中忠七宅に赴かれ、数日御滞在になり、肥の授けを御渡…

教祖略伝 布教(三)

勤め場所内 社はいらん、小そうても勤め場所を建てかけ、一間四方はしん、接足は心次第と、教祖は元の神、実の神を信ずる信仰者に対しての普請に対する姿勢を教示された 飯降氏の入信は妻女の産後からであったが、全快せしにより、同年七月二十六日夫婦連れ…

教祖略伝 布教(二)

後に天啓を取り次ぐ中山みきの後継者となった本席・飯降伊蔵 教祖五十八の歳の時、櫟本の梶本家へ縁付かれた春子様、始めて帯屋許しを与えられた。信者へは六十一歳の時百姓惣助の妻お雪に、自ら行きて帯屋許しをせられたのは始めである。 かく教祖の教えが…