落つれば登るより道なく、霊泉は人の来り汲む如く、文久元年の頃に至って、教祖を生神として信ずる者付近に現れ、不思議な神珍しい神として、四方に喧伝せらるるに至り、参詣する者日に多きを加へた。
信者の増加はやがて参詣所の必要を感ぜしめた、この時教祖の衣鉢を継がるべき飯降氏が、内室のお助けより入信し、報恩の意を致す為に、大工の身を幸い社を造って奉献せんと願われし所、教祖は「小そうても勤場所を始めかけ」と仰せられた。
神意に添い米庫と綿倉を取払い、飯降氏を大工棟梁として、世の元たるべき勤場所の建築に着手された。是れ元治元年の九月にして、翌月の二十六日に上棟式を行い、十一月中旬に至って落成した。
建築が予外の費用を要する例に洩れず、その年末の季節に至って、支払の困難が迫って来た。飯降氏は小寒子様の内意により、支払いの延期を瓦屋や材木屋に頼み歩かた。
勤場所は六間に三間半の平屋にして、正面八畳の間は上段にて、その奥に神床を設け、教祖は上段の左側に座を占めて、諄々として神命を宣べ伝へられた。是れ本教最初の詣場所にして、教会の歴史はここにその源を発している。
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