増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

教会略史 伝道より教会へ

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本部設置の公認と、受訓の授与とは、本を教信徒熱狂しせめたと共に、布教は燎原に火を放った如く、八方に拡がって、盲者は眼を開き、躄者は立って歩むなど、奇跡が随所に現れた。天啓の教えは今や妖雲を払って、旭日の如く人類の上に照らされた。

その伝道の経路を辿れば、高弟の苦心と努力が窺はれる。それを略述すれば、高井氏は地場付近を、桝井、喜多二氏は大和西北部を、宮森氏は山城の一角及び大和の東北部を、板倉、松村、増井、山本、松田の諸氏は、河内一円より近国に亘り、上村、山田に二氏は、大和の南部より紀伊の西北部を、筒井氏より大阪市内及び山陽道訪問を、梅谷氏が大阪市内を、諸井氏は遠江より奥州を、上原氏は東京、埼玉、栃木地方を、清水、増野、富田の諸氏は神戸氏より

播但地方を、島村氏は土佐を、山田、畑林の二氏は紀州の南部を、深谷氏は、京都府より滋賀、北陸を、鴻田歯は北越を、平野氏は大和、伊賀、山陰道方面を、布教伝道せられた。

教会本部設置と共に、天理教会規約が制定さられたので、部族教会が認めらるゝに至ったから、伝道に従事した人々は、何れも教会設置を願い出、各地に教会を設置し、伝道の根拠を定めるに至った。

明治二十二年度には、郡山、兵神、山名、船場河原町、東の六分教会、同二十三年度には、敷島、高安の二分教会、同二十四年には、高知、芦津、梅谷、北、網島の五分教会、二十五年度には、中河分教会が設置さられた。支教会に於いては、二十二度には撫養支教会、二十三年度は田原支教会、二十四年度には南海支教会、二十五年度に、平安、中津、御津、西、堺、奈良、泉の八支教会、二十六年度に、大江、上町、八木、春道の四支教会、二十七年度に、櫻井支教会が設置せられた。

かく教勢が次第に発展すると共に、本部に於いても種々な施設が行われた。それを概括すれば、明治二十三年一月に、別席の制度が定められ、二十四年には、本部が六等教会より一等教会に昇格し、二十五年には、教祖の墓地が完成して改葬が行われ、布教事務取扱所規定が発布され、雑誌道乃友が発刊せられた。

かく教会公認以来、急速なる歩調で発展したのである。

その結果は二十六年には、朝鮮布教が開始せられ、二十八年には支那琉球に伝道され、二十九年には台湾布教が創められるなど、本教は教祖の谷底の道より細道へ、さらに大還道へと進んで行った。

 

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