増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

教会史

一つの理 四(二)

このことに就いては、私が学校から帰った当時、色々と考えて見ましたが、如何しても分からない。一日父に伺ってこの質門をすると、父は言下に「しんの誤りは神の誤り」と教祖が仰せらたと答えのであります。その時私は始めて成程と得心をすることが出来たの…

立教の意義及び組織(二)

けれども信仰の中心制度になるべき教会組織に至っては、以前の元のまゝに制度と踏襲して、大教会、教会、分教会、の如き外形的要素には多少の変遷はあったとはいへ、その根本的組織に於ては、全然如如等の変革をも見ず、そのまゝ今日まで推進して来たのであ…

教会略史・最終章 最近の事実

満9歳8ヵ月で二代目館長に就いた山中正善 大正三年十二月最終の日、前館長が暗雲閉ざして天日晦きに、忽然として神に召されて帰幽せられた。しかし嗣子正善殿が、父君の後を継がれ、山澤氏が管長職務摂行者となられて翌大正四年四月、神殿建築報告祭が、各方…

教会略史 神殿建築  

一派独立を祝う報告祭の様子(明治42年2月) 独立認可の一年前、四十年旧五月五日、飯降本席が、病中十年の指図を百日にして、本部神殿建築の決心を定めさせ、三年たてば木の音石の音もすると予言して帰幽さられた。 次いで独立の認可さられたので、本教の教…

教会略史 独立(二)

第三回の願書は、三十七年八月であるが、第二回の願書が教義の不明にあったから、直ちに天理教典の編纂を終へ宗教局へ提出して意見を求めた所、同意を得たので帰本し、教典を普及する為、教師講習会規定を制定し、本部を始め部下教会に於いて、講習会を開催…

教会略史 独立(一)

中山眞之亮 25歳当時 節を通りぬけたら新芽が吹くが如く、大きい節を通った本教は、一派独立の新芽を吹き始めた。明治三十二年五月、神道本局の新任管長へ挨拶の為、前館長の上京せられし際、本局の負債償還及び本局新築の寄付を感謝し、合わせて本教独立の…

教会略史 大 節

明治41 年内務省訓令発令後の天理教会本部神楽式之図 明治二十七年の日清戦争は、日本の大きな節であったが、本教も亦その影響を受けて、人夫志願の募集や、軍資金の献納の忙殺さられていたが、戦後の不況は、やがて教勢の上にも現れた。 然し教祖の十年祭が…

教会略史 伝道より教会へ

本部設置の公認と、受訓の授与とは、本を教信徒熱狂しせめたと共に、布教は燎原に火を放った如く、八方に拡がって、盲者は眼を開き、躄者は立って歩むなど、奇跡が随所に現れた。天啓の教えは今や妖雲を払って、旭日の如く人類の上に照らされた。 その伝道の…

教会略史 本部の設置(二)

神道天理教会本部神楽式図(明治29年) 教会公認を要望する心は、再び信徒の胸に燃えて来た。真意を伺うと一寸ふいたる芽は今度は折れるとの仰せである。 重なる信徒が安堵の飯田、櫟本の梶本家で相談の上、東京府で出願の決心をなし、神意を伺いたる所、同…

教会略史 本部の設置(一)

明治20年陰暦正月27日集合写真 人間の親たる神の道を、子たる者の許しを受くべきは道にあらずと、教祖はあまで独歩の道を進まれたが、神教の宣布を念とする信者は、教会設置の公認を急務とし、種々計画する所があったが、総てごうへいに帰したので、明治十八…

教会略史 教会公認の計画

蒸風呂兼宿屋業も、信仰に対する官憲の干渉を全く避ける訳に行かぬので、明治十三年九月、金剛山地福寺に配下に属して、仏式の教会を設くるに至った。 然るに明治十五年九月に至り、神楽の立勤めを行はれたのを機とし、神仏混淆の上、多数の衆庶を参拝せしめ…

教会略史 勤場所(二)

勤場所(現記念建物)で神楽勤、おてふり、教祖からの神の話の取次が行われ教祖や弟子らが神の勤めに励むこの小さくても勇んだ心で造り上げた勤場所から元の神、実の神の教えが急速に広がっていった 落つれば登るより道なく、霊泉は人の来り汲む如く、文久元…