増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

教会略史 独立(一)

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中山眞之亮 25歳当時

節を通りぬけたら新芽が吹くが如く、大きい節を通った本教は、一派独立の新芽を吹き始めた。明治三十二年五月、神道本局の新任管長へ挨拶の為、前館長の上京せられし際、本局の負債償還及び本局新築の寄付を感謝し、合わせて本教独立の勧誘をせられた。

帰本後独立に関する神意を伺はれると、ぼつ/\と始めかけとあったので、部下教会長を招集し、協議の結果、重ねて神意を仰ぎ、独立の準備に着手さられたのである。

同年六月松村、清水の両氏が、本局との交渉委員を命ぜられ、神様の御許しを得て上京し、種々交渉の結果、円満なる契約を結んで帰本された。

越えて翌七月、前館長自ら随員と共に上京し、本局の添書を得て、天理教会独立請願書を、八月九日に内務省へ提出せられた。同時に添付書類と参考書類が添えてあった。

右の出願を済すや直ちに帰本し、天理教校の設立請願書を提出した所、奈良県知事から、九月二十六日付で認可せられたので、翌三十四年四月一日から開校し、本教教師の養成機関とした。

明治三十三年七月、松村、増野両氏が上京し、宗教局へ出頭した所、課長は独立など思いもよらぬ、帰国して改善の道を講ずるが得策であろうとの事で、殆ど相手にもせらねなかった。それで同年十月二十二日に、遺憾ながら書類の不備を理由として、願書を取下ぐる事になった。

第二回の請願書は、三十四年六月に提出されたもので、その時は七種の添付書類と五種の参考書類とで、前願書に比べて大きい相違は、教会所取締規定の制定で、全国を十教区に分割し、本部長直属の下に、教区内の教会及び教師の取締を目的とせられていた。

然るにこの請願書も、教義が未だ明確にされていなかったので、明治三十六年一月、再び願書取下げの止むなきに至った。

 

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