増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

教会略史 独立(二)

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第三回の願書は、三十七年八月であるが、第二回の願書が教義の不明にあったから、直ちに天理教典の編纂を終へ宗教局へ提出して意見を求めた所、同意を得たので帰本し、教典を普及する為、教師講習会規定を制定し、本部を始め部下教会に於いて、講習会を開催するに至った。

同時に教師としての資格なき者を、三項目に亘って調査し、教師を改善する為、千四百名の教師を淘汰した。

然るに三十六年五月、天理教禁止解散の請願を中西某が一代議士の紹介で衆議院へ提出し、大袈裟な反対運動を始めた。しかしついに握り潰しとなったが、これらのため第三回の請願の遅れたのである。

その時の添付書類は五種で、参考書類は七種であったが、之を受理した宗教局では、書類はこれで完備したが、書面通り実行せられなければ、何の価値もないから、実行の上更に願い出よとの内意であったので、同月三度願書を取下げた。

 ところがその年の二月に、日露戦争が始まったので、本部でも奉公の誠を致す為に、国債募集に応ずると共に、傷病兵の慰問遺族弔問など多忙を極めた。又戦時に於ける帝国臣民の心得書を発行し、戦死者子弟の学費補助会を起し、徴収した金員を各府県知事に送り、その処分方を依頼した。

この多忙な時期に、教典の普及を図るために、巡廻宣教規定を定め、部下一般に通達し、本部より九名部下より五十八名を講師に任命し、各地に講習会を開いたのである。

その結果末派の信徒に至る迄、教典の趣旨が普及したので、三十七年十二月、第四回の願書を提出した。その時は、四種の添付書類と十二種の参考書が添へてあった。

三十八年六月に至って、宗教局から松村氏を呼び出し、願書に対する取調があった。松村氏は三橋、神崎氏を同伴、詳細に説明さられたが、なほ陳述を明瞭ならしむ為、道願を差出し、それに独立請願の理由書と本教の経過事績冤及び現在実況を精説添附せられた。

この取調の結果、宗教局では認可差支なしとのことになったが、その十二月初旬、青森県で婦人布教師が、金平糖の件で勾留せられ、折角の努力も水泡に帰したので、願書はその儘、松村師は帰国さられた。

明治三十九年二月、気楽「神の曲」を完成したので、宗教局へ出頭せられた、所、請願書は宗教の局調印の上、合議の必要上、警保局に廻された由を聞き、内心悦んで帰本せられた。

この年教祖の二十年祭に相当するので、本部に於いては二十間四方の仮式場を建て、盛大になる祭典を行われた。越えて四月日露戦争病死の弔魂祭が行われた。この二大祭典の時は三島全村人を以て埋められた。

一方請願書は、警保局に廻附されたが、局長の古賀氏が、強硬なる反対を試みたので、折角順調に進んでいた請願書を、復復取下ぐるの止むなきに至り、同年十二月内務省より下げ戻された。

第五回の請願書を提出する迄、松村氏は古賀氏の諒解を得るために、百方手を尽された。種々なる交渉の末、同氏の諒解をも得たので、明治四十一年三月、第五回の独立請願を提出した。その時は添付書類が五種と、参考書が十八種の多きに達した。

然るにその年の七月、西園寺内閣が瓦解した為、十年の苦心も空しくなった。次の桂内閣が成立するや、松村氏は多田氏を通じて、平田内務大臣に、本教の経過並に内容を説明し、遂に明治四十一年十一月二十七日、天理教別派独立の許可を与えられたのである。

 

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