増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

教会略史 神殿建築  

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一派独立を祝う報告祭の様子(明治42年2月)

独立認可の一年前、四十年旧五月五日、飯降本席が、病中十年の指図を百日にして、本部神殿建築の決心を定めさせ、三年たてば木の音石の音もすると予言して帰幽さられた。

次いで独立の認可さられたので、本教の教勢は頓に熱を加へ、各教会の改称についで、盛大な独立報告祭が、四十二年二月に行はれた。

四十三年一月には養徳院の章程が出来、同月天理教婦人会が創設さられた。八月には教会組合規定が廃されて、教務支庁規定が設けられ、十一月には海外布教規定が発布されてるなど、新施設が続々現れた。

本席の予言の如く、この年五月に仮神殿を斧始式が挙行せられた。然るに前管長がその四月より病気に罹られたので、松村氏が事務を処理せられ、翌四十四年仮神殿へ、大神の遷座式が行はれた。

この年六月朝鮮布教管理所が設置せられ、九月には天理教校の校舎が鑵子山に新築せられた。前館長の病気が快癒したので、同月本復奉謝祭を行はれ、翌月仮神殿建築起工式を挙げられた。

明治四十五年に入って、神殿巨材の地場に到着するのものが多かった。然るにこの年明治天皇崩御遊ばされ、大正と改元せられたが、その十一月二十八日、神殿の上棟式が執行せられた。

大正二年八月、教祖殿の上棟式が行はれ、九月満州布教管理所規定が発布せられ、十一月満洲布教管理所が新設さられた。この年の十二月二十五日、仮神殿は総檜造りの、雄大荘厳なる大建築で、大和平野の一角に毅然として、聳え、渡り廊下に依って、教祖殿、祖霊殿に連なっている。大正三年春四月、遷座式を行い落成報告の一大祝祭を行う準備中、不幸国家再度の諒闇で、止むなく厳粛に仮遷座のみを行はれ、翌年四月その報告祭を執行さられた。

 

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