増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

教会略史 大 節

 

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明治41 年内務省訓令発令後の天理教会本部神楽式之図

明治二十七年の日清戦争は、日本の大きな節であったが、本教も亦その影響を受けて、人夫志願の募集や、軍資金の献納の忙殺さられていたが、戦後の不況は、やがて教勢の上にも現れた。

然し教祖の十年祭が匂掛けされるゝや、一段の活気を呈して、その準備の為信徒詰所が続々建築さられ、三十戸に足らなかった一寒村が、忽ち都会化しはじめて、その発展は驚くばかりであった。
教祖十年祭は、明治二十九年旧一月二十五日に執行せられ、翌日は春季大祭、その又翌日は、日清戦役従軍死亡者の大弔魂祭が行われ、全国より帰来せる信徒は十万を越え、内外の耳目を驚かした。

 善悪が相図立合として、現れる如く、教祖十年祭の盛大を喜べる一面に、本教を撲滅せんとする、魔の如き手が差し延べられてあった。そこに大きい節が現れて来た。

それは新しき信仰の形式と、不思議な助けと、熱烈なる布教より、社会の誤解を招いた結果、政府に於いても捨て置けずと認め、明治二十九年四月六日付け以て、各府県に内務省より秘密訓令を発したのである。

この当時各地の新聞は、本教を淫祠邪教となし、筆を揃えて悪罵するのみならず、甚だしきは数ヶ月に亘って、事実無根の虚説を捏造して連載し、読者の喝采を求めたのである。

事情右の如くであるから、本教の取締は厳格の上にも厳格になった。なおその上に、神道本局を通じて、本教の教義及び儀式に高圧的な強制をなし、もし聞かずば解散を命ずべしと威嚇した。

本部に於いても死活問題であるから、神意を窺うた所が、いかんと云へばはい、ならんと云へばはいと云へとあったので、その神意に基き、同年五月合議の結果、八ヶ条の件を改めた。

その内容は、一、本部は従来の神楽勤めを改めて、御面を机上に備へ、男子のみにてお勤をなし、一寸波夏はなし、甘露台の勤めとする事。一、朝夕の勤めは一寸はなし、甘露台のみとする事。一、医師の手を経ざる以上、妄りにお助けをなさざる事。一、教会新築工事は、華美に渉らざる様注意する事。附教会設置は猥りに許さざる事。一、神符に対する件あ、神鏡を以て信仰の目標とし、本部より下附すべきものに限る事。一、教理の説き方を一定する事。一、天理王命を天理大神と称し奉る事。一、楽器は三味線、胡弓を用いざる事の八ヶ条で、何れも一件宛神意を伺った所、子供可愛い理から許すと仰せられた。

外部から押しよせてきた節は、右の決議によりて防ぐことが出来たが、立合の理が現れて、この事件が済んだと思う頃、又ここに教内から一つの節が現れて来たのであった。

明治三十一年に起こった安堵事件というのであって、安堵村の平安支教会長たる飯田氏が、自身に神懸りありと流布するのみならず、庄屋敷は火の屋敷、安堵は水屋敷と称し、純真なら信徒を昏惑し始めたのである。

本部は直ちに飯田氏の本部員たる現職を免じ、松村、平野、板倉の三氏に命じ、神霊取戻の為出張せしめられた。先方では之を渡さじと、恰も百姓一揆の如き騒ぎをしたが、神すぐ遷る程に、どんな事があっても、必ず手向いするなとの神意があってので、群がる中を相手にせず、神霊を無事龍田に奉遷しこの件は落着したのである。

 

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