教会公認を要望する心は、再び信徒の胸に燃えて来た。真意を伺うと一寸ふいたる芽は今度は折れるとの仰せである。
重なる信徒が安堵の飯田、櫟本の梶本家で相談の上、東京府で出願の決心をなし、神意を伺いたる所、同じ理やつれて通ろうとあったので、諸井、清水の両氏先発し、前館長は松井、平野両氏と三月二十七日地場を出発して、神戸より横浜に上陸し、四月一日着京さられたのである。
上京後直ちに準備を整へ、神道本局の添書を得、四月六日東京府へ出願した。越えて十日、知事より「書面願之趣聞届沿候事」という指令があった。是れ天理教会が公認せられた日で、その時教会は下谷区来た稲荷町に置かれたのである。
教会認可の狂喜に蘇った信徒は、四月二十四日開筵式を盛大に行った。前館長は諸井、平野両氏に従事し、同所の家屋敷を、中臺氏の厚志によりて買い求め、教勢次第に栄えて来た。
然るに地場へ本部を移転するのは、認可早々であり手段に過ぎる嫌いがあるので、一時分教会設置を計画し、神意を伺うた所、十分の許しがないので、翌七月本部を地場に移転を願うた。神意は地場一つの理あればこそ世界治まるとの思召しであったから、同月二十三日本部移転の手続きを済まし、東京の方は改めて出張所とした。
多年苦心を重ねられた結果、愈々地場に神道直轄天理教会本部の名を掲ぐるに至った。十月二十六日改めて盛大なる開筵式が行われたが、高弟の胸中千万無量の感がったに相違ない。
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