こう聞かして貰って考えて見ますと、来世などは無いと云うて居る訳には行きません、例へ口で云うて居ても、事実が左様になって来たら、事実が人の心を得心させて行きます。それ所か、我が口から我が事を云う様になるのであります。
そのかわりに人間が、其の反対に善い行いをして、人を助けて置いたら、次第に神樣に近づかして頂けるのであります。世の中には人の為に働いて、我が命を捨てた人が沢山ありますが、其の人等は皆神樣のとして祀られて居るのであります。又教祖も神の交わりさして貰いたいというて、神に近づく道を教えられたのであります。
左様考えてみますると、人間と云うものは、一方に進めば牛馬の道に行き、一方に進めば神様に行く道に、歩いて居る様なものであります。そして神樣に方へ進む様に、人間の身体は出来て居るので、その証拠に後へ歩く様に、少しも出来て居ないのであります。前へ前へ進んで行けば、人間の道はそれで立つのであります。
尚此の事は、人間が宿し込まれてから理を考えても分かるのであります。人間が宿ってから生れる迄、十ヶ月かゝるのでありますが、其の間に人間は、始めて神樣に造って頂いた時から、今の人間になる迄の理を通るのであります。
それ故其の間には、尾のある時もあれば魚の様にえらのある時もあるのであります。其の道を通って人間まで生長が出来たから、人間として生れ出るので、若し其所まで生長する事が出来ない因縁ならば、牛馬の腹に宿らねばならんのであります。此の点から考えても、後へ歩けば、牛馬にならねばならぬ事が分かるのであります。
※元の神、実の神々と出会う処→ふるのさとへ!