増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

一家の人々

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人間の心というものは、一名限りのもので、皆違うのであります。生れ変って来た道筋の違うだけ、その心の違うのは当然であります。従って親子であっても、兄弟でも夫婦でも、皆違うのであります。されば一軒の家にも美しい心を持った人もあれば、またその反対に汚い心を持って居る人もあるのであります。

殊にこのお地場は、鏡屋敷というて、教祖に因縁ある方が、寄って居られるのでありますが、その中には、どんな手本雛形も、現してあるのであります。一寸考えたらお地場には、心の澄み切った人のみ居られる様に思われるのでありますが、事実は善悪の雛形があるのであります。善い事をすれば善い理がまわり、悪い事をすれば悪い理の現れる上からいへば、世界の於いてもお地場に於いても同じあります。その間に隔てがあったり違いがあっては正しい屋敷といわれぬのであります。

故に同じ一屋敷に暮らして居る者の中にも、神様の様な方もあれば、仏の様な方があると同時に、鬼の様な方もあれば、悪魔の様な方もあるのであります。それを各人が見分けて、善き方は取って自分の習う雛形として、悪い方は自分から習わぬようにして行かねばならんのであります。それならこそ神様は、聞分けよりも見分けの方が肝腎や、仰せられたのであります。

御教祖の御在世中、或方が非常に勝手な事をせられたので、或時教祖はその方を、埃の館と仰せになりました。この方などは因縁から申せば、善い行をなさらねばならぬ御方でありますが、心は一人限りのものであるから、如何とも出来ないのであります。左様かと思へば又御本席の様に、次第に出世して神様の代理さへ、勤めになった御方もありのであります。全く神様の仰せの如く、同じ一つの屋敷の中にも、様々な心を持った人が居られたのであります。

然しこれは単に、お地場ばかりのことではありません。世界を大きい一つの屋敷と見て考えても、又小さく一個人の家について考えても、同じ事であります。その中には、慈の多い人もあれば、人を困らして喜ぶ者もあるという様に、心は皆違います。そしてその人の生涯は皆心通り現れて来るのでありますから、その世上の理を見て、悪い方へ心の傾かんよう、善い事は取って見習う様にして行かねばならんのであります。この理が心に分からぬから、家を不足にしたり、地場を不足にする様な心が起こって来るのであります。

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 10月26日秋の大祭記念十柱の神の御心と御守護