増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

此の道  道は我が事(一)

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 人間が此の世に於て、何が一番大切なものであるかと云へば、その人々の依ってそれぞれ答が違うであろう。けれども如何な人にも、共通して一番大切なるものは、自分の生命であります。何故なら凡そ世の中にあるものは、自分が生きて居るから価値があるので、自分が無かったら、総てのものは無い事になるからであります。

 然るに世の中には此の世の生命を與へるものは、一つも無いのであります。そして生命は人力の如何とする事が出来ないものだと申して居ります。全くその通りで、これは神様より外に如何する事は出来ないのであります。故に神様は人間に取って、何より大切なものでると云はねばなりません。

 然し神様が尊いものである、この道を信仰しらた助けられると云うても、もし自分自身が助けられなかった、何の有難味もないのであります。例へば自分の前へ並べられた御馳走の様なもので、食べなければ少し腹が満たぬのであります。故に此の道も同じで、道の理が我が身の上に現れて来なければ、道は結構と云う事が出来ぬのであります。もしそれを云うとしたならば、それは心にない嘘を云うて居るのであります。

 そこで此の道を自分のものにするには、此の道を自分の道だと思はねばなりません。更に一歩進んで云へば、此の道は教祖の付けれた道でありますから、その教祖を自分の教祖とせなければならぬのであります。自分の教祖とは、自分の雛形手本とするのであって、天理教の教祖とか、天理教の雛形とか思わぬ事であります。之を更に云い換へたら、自分通る為に、教祖があの道を御通り下されたのであると、思はねばならぬのであります。

 然るに多くの人は、教祖は白因縁の御方である。我々は悪因縁の者であるから、到底その道は通られんと云うので、教祖を祭り籠めて居るのであります。無論我々が教祖だけの道は通られんので、神様も誰が来ても教祖だけの道は通られんから、十のものなら二分三分通ってくれたら、後は神がたして十分に受取るとも仰せられて居ますから、それは通れんには相違ありませんが、それだからとて通らんと云うのは間違いであります。

 何故なら親はその子が自分より偉い者になり、出世するがの望みでありますから、人間も出来な迄も、教祖よりも豪い人になろうと云う心があってこそ、教祖に満足して貰えるのであります。それに教祖を別物の様に取扱うのは、一寸考えたら好い様でありますが、その実教祖の理を立て倒しに、倒して居るのであります。