明治十四年の末に至り、飯降氏の制作せられた甘露台の模型を、石造にて積みあげられる事となった。その時の石工は横田七次郎といい、瀧本の山中より信徒が大勢集まりて、荒石を地場に運び、漸く二段まで積まれた。
然るに石工の過失で、製作中の石をかき、遂に逃走したのでそのままに打ち捨てられた。翌年五月に、丹波市分署より警官が来て、その石を没収して持ち帰ったので、而来は再び木製のを用い、現在はその二段迄の模型が残されてある。
明治十六年教祖は八十六歳の時、勤め場所の北側に、三間四方の平屋を建築された。休息所と称するのはこれで、晩年教祖はその上段の間にあって信徒を教化さられたのである。
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