増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

理と心定め(一)

f:id:kosetu-tenkei:20210531052500j:plain我々が御道を研究するとか、勉強するとかいうのは、沢山の教理を聞くという事ではありません。それは私等を鍍金をして呉れるのみで、それに依って自分が変わるというのではありません。従ってお道の勉強は外からせられるのではなく、自己自身の内から、悟って行かなければならぬものであります。

私が未だお道をやりかけた始めに、如何にしても道というものが分からない。それで或時父に道の理は、如何したら分かるのかと尋ねました。それに対して父は、心の理と身に現れる理とをよく考へたら、世界の事が凡て分かると聞かして呉れました。私はその言葉に従って、我が心に現れて来る理と、我が身に現れて来る理とを考えました結果、お道が次第に分かるようになって来ました。

故にお道ではこの二つの理を、深く考えて行かねばならぬのであります。即ち自分がこういう心を使ったら、こういう事が身上に現れた、ああいう心を出したら、ああいう事が身に現れて来たと、幾度もためして、悟って行かなければならぬのであります。それが容易に出来るようなって来たならば、今度は身上に現れた所から、逆にその心が直ちに分かるようになるのであります。これがお道ではいう諭しの理となるのでありまして、この身上から心が見える様にならなければ、諭の理を十分徹底さす事は出来ないのであります。

 或る時私が布教者から、或る病人の諭しを尋ねられたので、その理を教へてやった。ところが先方へ行って尋ねたが、どうしてもそんな事は無いというて聞かない、それで布教者は私の諭しに間違いはないのかと、反問して来たから、私は重ねてその理を説いて先方へ教えてやった。ところがどう考えても、そんな事はせないというて聞かない。それで終に私が本人を呼んで話したところが、それならばこういう事がありましたと、直ぐ答えたのであります。

これなど要するに、布教者は聞いたのみで、その理が見ていないから、押してそれを尋ねる事が出来ないからで、もし見えていたら、直ちに得心がさせられるのであります。

これと反対に理だけ聞かして貰うても、分からぬ事があります。私は先年胃病で苦しみましたが、何か不足の理があるのだろういわれた。私は色々考えて見ましたが、別段不足に思うている様な事がない。それで分からずに日を過ごしていました。ところが或時自分に不足がなければ、自分は喜んでいなければならぬ筈である。然るに自分は喜んでいない。すると何が不足が無ければならぬと考へた末、この世が愉快でないのだから、この世を不足にしてる。この世を不足にするのは、即ち神様を不足にしているのだという事が分かって、お助けを頂いた事があります。

 

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