増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

理と心定め(二)  

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その様に説くにしても聞くにしても、単なる諭しだけでは足らぬので、その理が説く者の胸に分かっていなければならぬのであります。それが分かるには、前に申した心の理から、身に現れる理を考えるのであります。それからその次には、我が心に現れる理と、自分の周囲に現れて来る理を考へるのであります。

例えへば今日こういう事を聞いた。すればそれには何か心の理があるだろうとその心の理を探るのであります。また勢いよく立った所が頭を打った。すればその時自分の心には何かあったかと、見る事聞く事と、我が心の理との間に、連なっている理を悟るのであります。それが分かれば分かる程、理が治まって来るというのであります。

それが即ち心が定まった来るいうのでありまして、理が分かって定まった心でなければ、何の価値もないのであります。何故なら人間自ら勉めて定めた心や、考えて定めた心は、その場だけであって、日がたつと知らぬ間に、崩れているのであります。例へば朝起きの話を聞いて、すぐその心を定めても二、三日すると、何時か知らぬ間に、朝寝坊をしている様なものであります。故に定めた心は壊れやすいが、定まった心は強いのであって、その定まる心は、理を悟ってからでなければ出て来ないのであります。さればこれを更に他の言葉でいへば理が分かっただけ、それだけ心が定まっているとう事になるのであります。

然らば心を定めて如何するのであるかというと、それは神様に凭れる為であります。神様に凭れるというのは、柱に凭れるとか椅子に凭れるとかいうように凭れるのであって、それだけ我が身が楽になるのであります。故に神様に心が凭れしまったことなら、心が楽になって来るのであります。故に神様は神に凭れて助かれと仰せされるのであります。

ところが神樣に凭れるという事は、助かるのであるから、誰でも出来る様に思うのでありますが、それが中々出来ないのであります。何故なら人間は知識があったり、感情があったりして、神樣に凡てを任すという事は、頼りない様に思うてせないのであります。その為に助かるべき所を助からず、救われるべき所を難儀して、通っている人が沢山あります。

これらも要するに、理が分からぬからであります。何故なら神様に凭れるというても、眼に見えん神樣の事であるから、神樣のその者に凭れる事は出来ない。神樣の御働きである理に凭れるのを、神樣の凭れるというのでありますから、理が分からなければ、凭れる事は出来ないのであります。従って理の分からん者は、神樣に凭れるいうても、それは本当に出来ない事であります。

 それ故神樣は、我が身の上から思案をして理を知り、理に依って心を定め、そして神に凭れよと、仰せられているのであります。故にこの道に於いては、心の理と身上の理をよく悟って、理を心に定めて行く事が第一でありまして、これをやらなければ、真の助けも又助かる道も、分かって来ないのであります。

 

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