増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

肥の授け

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肥一条というのは、いう迄もなく肥の事であります。教祖在世中に、肥の授けというのを御渡しになりました。

それは灰三合土三合糠三合、これを合わせて肥の御授けを頂かれた方が祈願して、田に置かれたならば、肥一駄のきゝ目があると仰せられたのであります。そこでその肥の授けも、人に依って半肥の授けとういうて、半分よりきゝ目がないのと、丸肥といって、一駄のきゝ目のあるのと相違があったのであります。

又本部に於いては、毎年肥の勤めというのを行れる。これは糠土灰三升宛をふご入れて、甘露台の上に置き、肥の勤めをして、本部所有の田に置かれるのであります。

以上の如く肥の授け若しくは肥の勤めをせられて、肥料を置かずに充分の収穫を得るのでありますが、これは道理から考へたならば、不思議な事でいわねばならぬのであります。然しこれは神樣の特別の守護に依って、出来るのでありまして、それは要するに人間の心が、真実であるや否やに依って、定まって来るのであります。故に或方は半肥であり、或方は丸肥である授けの理を、頂いておられるのであります。

この様にこゑというのを肥料という意味に取るのと、今一つの解釈は、人間の声という意味に取るのとあるのであります。何故ならば人間の心を養うものは、人間の声であるから、これを心の肥料と見るのであります。すれば如何なる人間の声も、凡てその肥たり得るかといへば、左様は行かぬのであります。何故なら人間の心を生かし養うものは、真実であるから、真実から出た声でなければ、人の心を生かすだけの力がないのであります。

御本席に神懸あって、刻限なり差図なりを仰せらえる時には、その音声が日常の御本席と違って、厳然たるものであったという事であります。これは私の実験から申しましても、自分の心に何等の影も差していない、清々した時に使う声と、心が苦しみや悶えのある時に出て来る声とは、非常に相違があるやうであります。故に心が清浄になったら、単に声ばかりではなく、その肉体なり眼光なりが、変わって来るのは当然であろうと思うのであります。

その真実の心から出た声が、人の心の奥深くに伝わって、その人の心を生かし養うて行くのであります。それ故にこゑの授けという様に解釈せられてもいるのであります。然し教祖の仰せられたのはやはり、前の肥の方であるように思うのであります。

或方が教祖から肥の授けを頂かれて、自分の田で肥の授けをして、ためされ話があります。それは一つの田は肥の授けをして、肥を少しも置かずに捨て置かれ、他の田は例年の様に肥を置かれたのであります。所が肥を置いた方の田は、日に日に成長して行くが、肥の授けをせられた方の田は、成長が甚だ鈍い。それで肥の授けも、あまり利目の無いものだと思うておられたのであります。

ところが夏になると、旱天で雨が中々降らない。その結果田は一面に枯れて来たのであります。それで其の秋になって収穫は、何の田も思う様になかったのであります。然るに肥の授けをせられた田のみは、旱天の影響をあまり受けないで、他の田に比して、多くの収穫があったというのであります。

これ等は皆神樣が、真実の心に陰から守護をしておられるからであります。故に真実の心の見定めが付いたら神が守護すると仰せられたのであります。

 

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