増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

真実を需(もと)めよ(一)

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神樣が神に凭れる子供とういて居られるには、いう迄もなくこの道を信仰して居る者を、指さして居られるのでありますが、その子供に早く表へ出る模様せよと、仰せられて居るのであります。その表というのはどういう所であるかと申しますと、それは世界の事を指さして居らのであります。即ち早くこの道を世界へ広める為に、布教に出る様にせよという事を、その模様せよというて居られるのであります。

然し布教と出て行くというても、何もなしに行くという事は出来ません。例へば人に物を恵みに行こうと思へば、自分に金があるから無いかを調べなければなりません。人に恵むという事をは良い事でありますからというて、自分に金銭なしに恵む訳には行かないと同じ様に、布教するにも基となる所のものを持って行かなければ布教は出来ないのであります。

そこで早く外へ出て布教がしたいと思うならば、それに先だって助けの土台となる所の、真実の心が自分にあるか無いかと云う事を、よく心静めて思案して見て、それがあれば出て行けと仰せになって居るのであります。

従って我々御道の者は何よりも、自分の心の真実を尋ね出さねばなりません。所が此の真実と云うものは、中々容易に出て来るものではありません。苦労に苦労をして、我が心が苦しんだ後でなければ、現れて来ないのであります。これを例えて申しましたら、如なる人の住んで居る所でも、その足許を掘って行ったならば、必そのず大地から水が湧き出る様に、人間の心もその奥深くへ掘り下げて行ったら、必ず真実が湧いて来るのであります。然しその井戸を掘るという苦しみを、多くの人がせない為に、心から真実の理が湧いて来ないのであります。心の奥から真実の理が湧かない人は、仕方がないから人の井戸から貰い水をするか、池から持って来るかせなければなりません。けれどもこうした溜め水は、日がたつに従って無くなって行く道理であります。然し水の湧く井戸があったら、その水に依って、人の心も洗う事も出来れば、又自分の心も洗う事が出来て、しかも常に新しい水を使う事が出来るのであります。

故にどうしても人に教えを説く者は、先ず自分の心を掘り下げて、水の湧く所まで心の苦しみをして置かなければならぬのであります。

 然し、井戸を掘るというても、その人の因縁に依って、僅か二三間掘って水の湧く人もあれば、大きい岩があって、それを打ち抜かねば出て来ぬ人もあります。然し兎に角掘って行けば出て来るのであります。普通の井戸よりも深い掘抜井戸であれば、掘る苦労は容易ではありませんが、そのかわり堀り抜けたら、吹きあがって水が出て来ます。教祖の如きは即ちこの堀抜井戸の如きもので、心から真実の理が叢がり湧いて来たのであります。

 

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