増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

心の雑草

f:id:kosetu-tenkei:20210802164844j:plain

凡そ人間には何れもその人として、通らならければならぬ道があるのであります。即ちそれは真の道であります。所が多くの人は、その真の道を通らない為に、その道に草が生えて居るのであります。草が生えてしまったならば、道が道としての用をなさない様に、人間は人間としての価値を失うてしまうものでありますから、真の道を通って、その心に草が生えないように、せなければならぬのであります。

 さればその草というものは、何であるかと申しますると、それは日々に人間が使う所から生じる、小さい埃であります。小さい埃でも日が重なれば、沢山出来る様に、道の草も大木の様に道の邪魔をするというのでありませんが、それが為に道を失はす事は事実でありますから、道を失う所まで草を生えさゝない様に、日々気を付けて行かねばなりません。

所がこうした草の生える道というのは、未だ新しい道であるか、人通りの少ない道であって、人々の多く通る都会の道には、草などが生えるものではありません。是は道路の造り方が違うからでありまして、人間も難儀や苦労を通って、道を踏み堅めたならば、少々の事では草が生えなくなるのであります。故に暫く捨てて置いたら、草の生える様な道を通っていたりせずに、少しも早く都会の様な道を通る様な者にならなければならんのであります。

そこで左様した都会の様な、立派な道を本道と仰せられたので、細い田舎の道を通って居る間は、伴が少ないから、従って淋しい思いをせなければならぬが、大きい本道にならば、多くの人と共に手を連いで通れるから、自然心が陽気なって来るのであります。故にこうした大きい道を付ける様に、心懸けよと云われたのであります。

尚此の事を例に就いて申しましたら、単独で布教に出て、知らぬ土地で働きかけた細道であって、その細道を通って居る間には、時には心を倒したり先を案じたりする心が出て、何となく心淋しく感ずるものである。左様云う時が心に草が生えて来る時であって、中にはその草の為道を失って、世界に落ちて行く人も無いではないのであります。所がその間を辛抱して通って行ったならば、其所此所から道を通る人が出て来て、始は一人であったのに、後にはその心次第に依って、何千何百と云う人を連れて通れる様になる。是が即ち本道に出たので、その本道にさへ出たらば、心は少しも寂しくなく、却って多くの人と共に、陽気に暮らして行ける様になるのであります。そして更に其の人々が力を入れて、何事もして呉れる様になるから、末楽しみとなるのであります。

 

※元の神、実の神々と出会う処ふるのさとへ!