神様が人間を御造りになったのは、この世が泥海であった時、月日両神いたばかりでは何の楽しみもないから、人間を造り陽気暮らしをさせて、それを見て神も共に楽しもうという所から、御造りになったのでのあります。それは丁度人間が我が子を見て、楽しむと同じ道理であります。
それで人間は目的というものは、この世に於いて陽気暮らしをするにあるのであります。しかるに人間は長らくの間通った道筋に於いて、種々なる因縁を付けて来た為に、この世で面白く暮らす事の出来ない様な、悪い性質を持つように至ったのであります。これでは当初神様が人間を御造りになった、目的に反するのでありますから、その親の心に反しただけ、苦しんで通らねばならぬ事になったのであります。故にこの世に於いて、苦しみや悩みがあるというのは、苦しみのあるだけ悩みのあるだけ、それだけ神様の思し召しとおりの、心の持ち方をしていない事になるのであります。されば苦しみや悩みを持っている者は、早く神様の思し召しに添うように、自分の心を改めて行かなければならないのであります。即ちこの世が陽気で暮らせる様に、自分の心を改めねばならぬのであります。
しからば陽気暮らしとは、どういうのであるかと申しますると、世界普通では春の日に、三味線太鼓で面白う花見をしたりするのを、陽気というているのでありますから、陽気暮らしとは左様した華やか生活をするのが、陽気暮らしと思うのでありますが、この道で陽気とは左様したものをいうのではありません。成る程これも陽気であるには相違ありませんが、さて今少し進んで心の内に入って見たら、陽気ではなく陰気の場合が多いからであります。なぜなら世界において賑やかな盛り場へ行く人の心を見ますると、実は我が家に居るのが苦しいとか、つらいとかいう事があるから、その心をまぎらわす為に、賑やかな所へ行くのあります。されば一時それで心がまぎれて、陽気になる事で出来ましても、そこから家へ帰れば、又苦しみや悩みが我が身に迫って来るのであります。故にこうした陽気な唯表面のみの陽気であって、神様の仰せられる陽気とは違うのであります。
すれば神様の仰せられる陽気とは、どういうのであるかと申しますと、陽気暮らしとは眼にとは見る事とは、ころっと違うと仰せられた様に、形の上の陽気ではなく、心の内の陽気であります。即ち自分の心が何時如何なる所でも、賑やかな所へ行って居る時の様に、心に何の心配もなく、何の煩いもなく、家々睦まじつ通って行けるのが陽気暮らしであります。
それは丁度一家の中に於いて、子供等が仲好く遊んでいるのと同じでありまして、親の心がそれを見て、どれだけ楽しめるかも分からぬ様に、神様もその人間の陽気暮らしを見て、共にお楽しみなる事が出来ますから、神様が人間を御造り下された当初の目的に適うのであります。
しかるに多くの人間は、この神様の目的に適う様な暮らし方をせない為に、いい換えれば同じ神様から生んで貰うた兄弟であるに拘わらず、互いに苦しめ合ったり、困らせ合ったりするから、神様としても捨てて置けん所から、お叱りになるので、それが人間の病気や災難となって現れるのであります。だから病気や災難に出合った時、この神様の思し召しをよく思案して、神様の御心に添うように、改めて行かねばならぬので、それが懺悔であります。
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