増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

術と真実

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術や法というのは、仙人や山伏の行うものであって、例へば火遁樹の術とか、真言秘密の法などというのでありますが、この道の出来る迄は、この法の随分行われたのであります。

所がこの御道が現れる頃になって、次第にその術や法が行われぬ様になり、今日では殆ど一般の人が、顧ぬ様になりました。この術や法というても、皆是は神様が教へになったものであるが、最早この道が現われた以上、必要が無くなって来たから、神様が利目の無い様にせられたのであります。

それでその術や法は、如何して出来たのであるかと申しますると、それは皆真実から出来たものであります。故に如何程熱心になって、法や術を行ってもその心に真実がなかったら少しも役ににたたないのであります。その点に於いては昔の人は割合に心が素直であったから、中には真実の人もあったが、今の世の中、知識は進んで来ましたが、心の真実は次第になくって来て居るのであります。術や法のきかぬのは、即ち是が為に外ならぬのであります。

こう考えて来ると、術や法より人間の真実の方が、遥かに尊いのであります。真実さへあったなら、神様の自由用を頂く事が出来るから、如何な珍しき事も現はされるのであります。故に術や法というのは、要するに真実があって始めて後に行はれる事であります。それを知らずに術や法というていたら中身の無い物と同じで、直ぐ破れてしまうのであります。真実が内心にあってそれから自然に現れてものでなければ、術や法というても尊い事はなのであります。

教祖の御在世中に、山伏などが教祖の道の盛になるのを悪んで、何とかしてこの道を止めさそうというので、教祖の所へ出て来て、白刃を抜いて教祖を取囲んだ事があります。けれども教祖は世の風説の様な、狐憑きでも気違いでもありませんのみか、この世に又とない真実の御方でありますから、如何すること事も出来ません。教祖を攻める所が、却って教祖の真実の力に威伏せられて、逃げていんだ事があるのであります。是れ即ち教祖の真実の理が、術や法を使う者以上、強い力があったからであります。

斯様に真実の心は、尊いものでありますから、如何なる場合も、人間は真実になる事を心懸けねばなりません。真実の心を忘れて日々の通り方に、方法や手段を以てしたならば、一時は好い様でありますが、必ず先では困らねばならぬ日が出て来るのであります。即ち真実の道が現れたら術や法の力が無くなる様に、方法や手段ではやり切れなくなるのであります。故に何日迄も変ら真実の心で通ったならば、その心から自然に術や法と、人からいわれる様な不思議な珍しい事が現われて来るのでりありますから、何でも真実の心が強く大きくなるように、自分から勤めて行かねばならぬのであります。即ち言い換へれば、物質以上、法以上、術以上に超越した、真実を心に治めねばならぬのであります。

 

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 10月26日秋の大祭記念十柱の神の御心と御守護