増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

学者の盲目

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学問と云うのは昔と今、多少其の意味が変わって居るのであります。昔は文字を学ぶとうのが、学問である様に思われて居たのでありますが、今日では学問は科学と云う意味になって居るのであります。其の学問は御教祖は如何に見て居られたかと云うに、教祖は学問と云うものは見えたる事、即ち事実に現れた事より分からんと仰せられて居るのであります。

 この教祖の学問観を、今日の科学について考へましても、これは実にその通りなのであります。今日の科学と云うのは、事実を集めるのであります。例へば木ならば世界のあらゆる木を集めのであります。

 そして其の集めた木、即ち事実を分類するのであります。分類を云うのは似た物は似た物ばかり、分けて行くのであります。そして其の次には其の分類した物から、共通した点を見出して、その原理を探して行くのであります。故に学問と云うものは、常に事実があって、それから出来て来るのであります。

例へばこれを宗教学について申しますると、世界には仏教だとか、基督教だとか、沢山の宗教があるのであります。其の宗教を分類し、比較研究して行きましたら、何れの宗教にも信仰の目標とする所のものがある。或宗教ではそれを神と云い、他の宗教では仏とも天帝とも云われて居るが、その内容は神と同じ事でありすから、宗教には必ず神があると云う事実があって、そして後に宗教学と云うものが、起こって来るのであります。これは病気があって醫学が出来、法律があって法理学が起こるように、何れの学問も皆同じことであります。

然る神様の教えと云うのは、凡て其の事実が未だ現れて来ない間に、説いて置かれるのであります。そして其の日が来たなら、其の事実が現れて来るのであります例へば道を通らぬ者は、後に足を病むと云うて置く。これは道を歩かずに田や溝の中を歩くから、歩き悪くなって足を悩むのは当然であります。

けれども世界では其の理が分からんから、病気になったと云うて始めて驚がくのであります。それから醫者が必要となって来るのであります。

斯様に神樣は事実に先だって、理を説かれるのでありますから、見えて無い事を説かれるのであります。それで学問では見えた事、若しくは現われた事は分かるが、見えぬ現れぬ事は分かるまい。それだけに学問は人生には、価値の少ない事を仰せられたのであります。

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