人間の身上は皆神樣からの貸物であり借物でありますが、其の借主は霊で、我が物と云うのは、心一つの理より無いのであります。そこで我が心に間違いがあれば身に障りの附く様に、人間の心が人間らしくない使い方をすれば、人間で無い衣物を借らねばらなぬものであります、例へば小さい子供には、小さい子供に合うた衣物を着せ、大きくなった大人には、大きい衣物を着せるのと同じであります。
それを無理に子供の衣物を、大人に着せる事も出来なければ、大人の衣物を子供に着せることも出来ません。故に人間らしい心使いをして居れば、幾度生れ変わって来ても、人間らしく生れ出る事が出来るのでありますが、人間をはづれた心を使へば、牛馬に落ちて行かねばならぬのであります。
牛馬に落ちた者は、鞭を以てしごかれて、働き通さねばならんのであります。そして人間として生まれ居た間に、恩になった其の恩を報じるのであります。それから尚九度も生れ変りをして、又人間に生れ出さして貰うのでありますが、それも牛馬として好い行いをするからであって、若し牛馬としても悪い行いをする様であったら、それこそ再び人間の世界へは生れ出る事の出来ん者に落ちて行くのであります。
すれば如何云う心を使った者が、牛馬に落ちるのであるかと申しますと、それは恩を重ねたものであります。即ち恩報じと云う事をせずに、人から恩ばかり受けて居るから、其の重荷に堪へ兼ねて、牛馬に落ち、重い荷を運んで恩を報じるのであります。それ故恩が重なったら、おんづまりと云うて、是が人間としての最後であります。
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