この御道から申しましたら、この世に病気というものは無いのであります。何故ならこの病気というのは、人間の心に間違いがあるから現れて来るので、即ち心通りの理が身に映っているのであります。されば人間は自分の心から埃を払うて、真実の心になって通ったら、この世に病気は無くなってしまうのであります。それ故教祖は、病というてはないで、心に埃が付いたから、病むというのであると仰せられたのであります。
それから付き物という事でありますが、付き物というのは狸付や狐付や昔ならば死靈精霊が付くというたのであります。けれども教祖は付き物などは無いと仰せられたのであります。これは付き物などというのは、どういう訳のものであるかと申しますると、それはめい/\通ってして来た理が付くというのであります。例えば獣のような心使いをして来たものは、その理が付いて狸付や狐付といわれるのであって、人を苦しめたら生霊が付くし、人を苦しめて死なせたら死靈が付ついて来るのであります。これ要するに人間がこの世のみならず、過去の世に於いてした来た理が付いて来るのであります。
かように悪い事をして置いたら、悪い理が付くのでありますから、善い事をしたらば、好い理が付いて来る道理でありまして、現に神様がお付きになる事があるのであります。前管長公が東京へ行かれる時に、神が付いて行くと仰せになった事があります。故に好い事をするれば神がそう相応守護せられるのであります。
こういうと神様に段階がある様でありますが、全くあるのであります。一村より治められん氏神もあれば、一国より治められん神もあり、日本国中を治められる神様もあれば、この世を治める月日の神様もあるのであります。故にこの道を信心して、他の神様を拒る時には、長らく世話になりましたが、今度は元の神様を信仰する様になりましたから、元へ廻って御守護下されと拒れば、いかな神様も退くと仰せになりました。これに依っても神様に段階のある事が分かるのであります。故に好い事をすれば善い神が付かれるので、狐など付いた時に、この道の人が行けば、恐れるのはこの理であります。
次に化物という事でありますが、化物もこの世にはあるものではありません。これもはやり理が化けるのであります。例えば枯尾花を幽霊と見るのは、これは見様が悪いのではなく、自分に恐い怖ろしいという心があるから、その心の化けて出るのであります。かように人間が過去でして来た事が、今度は化けて来るので、左様した理を作っていない者には、化物は見えぬのであります。故に心の理が化けるので、我々の日常の間にも、自分が悪意を持っている人のいう事や為す事が、悪く思われるというのは自分が化かされているのであります。故に我々が真になって、真に化かれたら、それこそ幸福といわねばならぬのであります。
かようにこの世に病気も付き物も化物も無いのでありますから、人が何というてもそれに迷うてはなりません。それよりも自分が真の心になる様にしたら、事実の上に於いて化物も見ず、付き物などは無い事になるのであります。
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