増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

澄心の理

 

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神様が人間を始めて御造りになった時は、この世は泥海であった。所が人間が三尺迄成人した時に、天地が分かれたのであります。それから次第に成長して知恵の仕込みも受け、学問の仕込みも受けて来たのであります。所が学問の仕込みには三千年と仰せになりました。これを事実の上から見ましても、世界の最も古い国であるエジプトの開けたのは、四千年程でありまして、文字の記録のあるのは三千年以後であります。斯様に人間は神様から、時に応じ旬に従って、種々御育て頂いたのでありますが、これは丁度人間がこの世に生まれて通る道筋と同じであります。

 人間がこの世に生まれた時は、皆明らかな眼を持って居りましても、何事の見分けもつかないので、それは丁度もやの中に人間が住んで居たのと同じであります。それから少し成人して、物の見分けが付き始めると、第一に分かるのは両親であります。これは人間が三尺まで成人した時、天地が分かれて、重い物は沈んで地となり、軽い澄んだ物は天となって分かれたのと同じであります。それから子供はだん/\と、様々な事を覚えて行くので、それは神様が知恵の仕込みをせられたのと同じであります。そしてそれから学問の仕込みをせられた様に七八歳なったら学校へ行って、文字の仕込みを受ける様になるのであります。斯様にと元々の理も今の人間の理も、同じ道を通って行くのであります。

更にこれを御道の上から考えましても、この道へ始めて信仰して這入った時は、丁度子供が生れた時と同じでありまして、何が何やら分からんのであります。これを例えましたら、明るい所から活動写真の小屋に這入った時の様であります。真っ暗で何も分かりませんから、案内者に手を引いて貰はなければ少しも歩けませんが、席に付いて暫くすると、自然に眼が慣れて周囲の有様が分かって来るのであります。すると、始め手を引いて貰はなければ歩けなかったのが、我ながら馬鹿らしく思へて来るものであります。それも同じで始めの間は、物事がよく分かりませんが、道に這入って年限を通って居ると、自然に天の理が分かる様になるのであります。それは子供が成人して見分けが付いて来るのと同じで、心が澄んで来ると理が映るのであります。

斯様に凡ての事が映って来るには、心を静めて澄さねばならんのであります。何故なら濁った水には、物が映らぬからであります。澄んだ水なら底まで見えるから、物が映るのであります。又いくら澄んでも波が立って居ては、心が左様になったら必ず鮮やかに、理は映って来るのであります。

近頃徹底という言葉が流行致しますが、この言葉は禅宗の言葉でありまして、即ち心を澄まして底まで見えるという意味で、お道でいへば理が映るようになったのをいうのであります。それは恰も鏡の曇りを取ったのと同じでいりまして、何事も映るから、その前へ来た者は、別段改まって教理を説かなくとも、相手がその鏡に映る自分の見悪い姿に恥じて、姿を改める様に自然に我が心を改めて行くのであります。これは土地所々の雛形といわれるのであります。

故にこうした悟りを開いた人が、一人でも出たならばその周囲の人は自然に助けられて居るのであります。それを西洋の人は哲人が現われた悲劇が無いというて居るのであります。されば道を信仰する以上、此所まで成人させて頂かねばならぬのでありまして、年限長らく通っても、此の心の成人がなかったら、何の役ににも立たんのであります。故に神様に仕込みを受けて、理が映る様、理が働く様、神様の仰せられた寝て走る事の出来る様にさせて貰はなければならぬのであります。

※元の神、実の神々と出会う処ふるのさとへ!

10月26日秋の大祭記念十柱の神の御心と御守護

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