増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

神の仕事

f:id:kosetu-tenkei:20211111104720j:plain  神様は親が我が子を思うのと同じで、助けたい一条の御心で居られるのでありますから、人間に難儀や苦労をかけたいと云うお心、少しもないのであります。

 然るに、人間の世に苦しみが耐えないと云うのは、神様の思召に適う心使いをせぬ所から、我がと我が身に苦しみを作って居るのであります。それを神様はいぢらしう思召して陰から色々と心をつくして、怪我の無い様にと、理を見せられているのであります。

 所が人間は神様から理を見せて頂いても、それが悟れぬから、間違った事を改めずに、我意を通して行くので、大きい苦しみや病気が現れて来るのであります。それは子供が悪い事をするのを親が叱っても尚増長して悪い事を止めんから、終には勘当せられるようなものであります。神様も始めから人を苦しめねばならぬ様な、大きな苦しみを決してお与えになることはないのであります。始めはほんの軽い所で、理をお見せになるのでありますが、取り替えへが付かんから次第に重くなって来るのでります。

 例へば始めは一寸勝手を出した為に、風邪を引いたのであるが、其の勝手の心が取れん所から、人々と自分の心が磨れ合って身体に熱が出て来る、それでも尚心が改まずに、隔ての心が出て来るから、咳をする様になり、それでも、尚神様の仰せを聞かん所から、気管支炎になって来ます。それでも尚勝手の心を使うて、人と自分との間が円満に治まらなければ、心が閉じてしまう所から、心が蒸せて肺に虫が湧くようになるのであります。斯様に心と病気とは平行して進むのでありますから、始めに一寸風邪にかゝった時にさへ、早く取りかへて行けば神様は大難は小難に小難は無難にして連れて通って下さるのであります。

 斯様な訳でありますから、何でも始めの間に間違いは改めて行かねばなければなんので、それを捨てて置くから、丁度小さい間なら爪でも取れる芽を、末では斧を使はなければ、倒せん様になるのであります。

 故に一寸した事だと思うて軽く見て過ごしはならんのであります。何故なら病気そのものは、日と共によし助かっても、その理を悟って改めない以上、何時迄もその理が残って、やがて自分に帰って来るからであります。

 そこで此の軽い病気と云うのは、要するに神のお知らせでありますから、其の時に改めて行くのは道でありまして、それを捨てて置くから、苦しい事情や身上が出るのであります。其の知らせを教祖は、先よりことわりたうへかかるしるしごとや、と仰せになって居るのであります。

 

 然るに世間の人は此の道理が分かりませんから、少しの事は軽く見て捨て置き重くなって来たら苦しく辛いところから、神様と云うもんは随分な方だと云う様な怨み事を云うのでありますが、是は佐様云う者が間違って居るのであります。助けたいが一条の神様でありますから、人に苦しみを与えようという心は少しもないのでありますが、人間が神様の云う事を聞かぬから、神様は是非なく表へ現はしになって居るののと同じでありまして、病ましてだけ神様も苦しんでおいでになるのであります。

 故に人間は早く心を改めて、親に安心して貰える様にしたら、我が身も安心が出来、苦しみも助かるのでありますが、人間はそれを思わぬからいけません。神様は不意打ちはせんとも仰せられてあります。

 

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