このお道の人が難儀をして、人を助けに歩くのも、教会で日々勤めをして居るのも、要する所は自分の心を神様に受取って頂く為でありまするが、目当とする所は神様より外にないのであります。従って働く理が、神に受取って貰はれなかったら、それは何の甲斐もないのであります。そこで神様に受取って頂くには、何よりも先づ神様の思召のある所を知って、そこに力を入れさして貰う事が肝腎であります。
何故なら神様がこうしようと、思召しなって居ない所へ、人間が如何に力を入れても、それは何の役にも立たんからであります。例へて申せば私の宅に何か取込んだ事があった時、誰かが手伝いに来てくれたら、私は大変それを喜ばしく思いまするが、その取込みが済んで二三日もしてから、御手伝いに来ましたと云うて来てくれた所が、それは邪魔にこそなれ、何の役にも立たんのであります。
それと同じ様に、手伝うとした所で、その時を誤っては、折角の手伝いが無駄になるのであります。故に人間が神様の事をさして頂くにしても、その時即ち今は神様の思召が何処にあるのかと云うことを知らずして働いたのは、働いたいう事は事実であるとしましても、それは何の理にならぬのであります。
故に、自分の真実受け取って頂く為に働くにした所が、神様の思召のある所を知って働かねば、それは無駄になるのであります。これをお道の上で云へば、本部に於ては今こう云う事をしようとして居られる、けれども私の教会ではそこまでは運ばれんと、自分の教会の事をして居ると云う様な事であっては、それは何の理にもならんのであります。その事は信徒と教会との間に於ても同じ事であります。その結果はその教会の衰退を招き、又一家の衰微となるのであります。それだから神様は、なんぼ働いてもなんぼ尽しても、理の無い働きは無駄尽しの無駄働きであると云われたのであります。
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