増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

高山の説教(一)

f:id:kosetu-tenkei:20210531052830j:plain

神様が高山の説教と仰せれたのは、高山に育った木といわれたのよりは、少し意味が狭いのであります。何故ならその当時説教をする者は、仏教の僧侶か神社の神官より外に無かったから、当然それらの人々に限られて来るからであります。今日から考えましたら、僧侶や神官は必ずしも高山即ち上層に位する人々という訳にはまいりませんが、その頃即ち明治七年頃に於いては、神官僧侶が非常に勢力があったのであります。そしてこの大和地方に於いては、殊に説教等が流行したのであります。

この話はもっと後の事であろうと思いますが、河内地方に於いては、仏教が天理教壊しの演説をすれば、天理教に於いてもそれに対して、反対的の演説をやったものであります。

然し只今と違って、演説の内容は、実に幼稚なもので、例へば演壇の上へ仏像を持って来て、叩いて見せるとか、或いは日輪というのはりんりんと照らされるから日輪であるとか、そんな話をしていたのであります。これに対して教祖は、そんな事をするのやないと仰せになったそうであります。

 然し左様した演説の仕合いなどは、まだまだ緩やか方で、時によれば双方喧嘩をする事があった。従って聴衆も演説を聞くというよりも、喧嘩が目的で、何れもまきざっぽうを持って、演説を聞きに行くという風であります。郡山の前会長であった平野さんは、演説は出来なかったかわりに、喧嘩については、恩智楢といわれた人だけあって、上手であったとう事であります。

かように双方から、演説の仕合をした時もあったのでありますが、それはずっと後のことで、始めはそこまで道も開けてなかったのであります。そこで神官や僧侶の説く所と、教祖の教えられる所を聞いて、何れが真実であるかを思案せよと仰せられたのであります。

然し高山の説教と、教祖の真実の話を聞いて、何れが正しかを思案するという事は、その当時に於いてのみ必要な事ではない。現在に於いても、我々は高山の説教を聞き、又この道の話を聞き、何れが真であるかという事を、考へねばならぬのであります。

そこで高山の説教とは、どういうのであるかと申しますると、古い書物にはこう書いてあるとか、御祖師様はこう仰せられたとか、人間はこうせなければならぬとか、説いていたのであります。そのいう所に今日から考へましても、左様悪い事をいうていなかったろうと思われるのであります。ところがそこに一つ欠けている所がありのであります。それはその説教する人が、その教えにつて何等の実証を握っていないとういう事であります。即ち自分がそれを実行せずして、好い事だか好いと、単に話しているに過ぎなかったのであります。

これは今日の学者について、考えてみも同じ事であります。学者といっても無論この場合は、倫理学者をいうのでありますが、学者は必ずしも実行家ではないという申し訳の下に人々に説教しているのであります。従って学理的知識を、それによって与へられるけれども、決してそれは我々の心に、変化を起さす事は無いのであります。

これは昔の神官や僧侶と同じで、実行から得て来ているところがないからであります。早くいえば、口先ばかりで教理を説いたり、説教したりして、そこに何等の真実も見出すことが出来ないのであります。

 然るに教祖の教えはそれと反対に、別段書物を読んだり人から聞かされたのでなく、自分自身が行うて、始めて教えられたのであります。「我が身にためしに掛りたる上」と仰せられて、如何なる事も、凡て自分が先ず行うて見せて、それが出来てから人に説かれたのであります。それを教祖は如何程好い事をいうてもそれが行へなんだら何にもならん。それでは雛形手本とはいへん。それで行へるか行へぬか、我が身にためして、それから話すをするから、この道の事は行へん事は一つもいうていないと、いう意味の事を仰せられたのであります。