増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

親の心

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人間が神様の御心を直ちに知らして頂くという事は出来ないのでありますから、神様は神の心は丁度親が我が子を思う時の心が、神その儘の心なのであります。所が人間というものは、我が身我が勝手の事ばかり考えて居りますから、親の心を知る事が出来ません。そして親が死んでから、始めてその有難味が分かるような始末であります。そこで早く親の心になって思案して、神様の心を悟らして頂かねばならぬのであります。

私が始めて神様の御心を悟らして頂いたのは、私の二十歳頃でありました。或日鶏に餌をやって居たのであります。鶏というのは三羽で一羽は雄で二羽は雌でありました。所が雄は雌に食べさす為に、餌を少しも食べません。然るに二羽の雌の中、一羽は優しい鳥で、一羽は乱暴な鳥でありました。私が、餌をやめると乱暴の方の雌が、皆拾うてしまって、優しい雌は少しも食べる事が出来ない。それを見た私は、僅かな餌を遠方に放りなげてやりました。すると乱舞な雌が走って行ってそれを拾うのです。その間に私は優しい雌に沢山の餌をやっていました。然しそれは私が何の考えを持ってして居るのではなく、唯左様して居たのです。

その時ふと私は神様の御心もこうゆうものだと分かったのでありあます。

それ以来私は出来るだけ心を優しく持って、人より先に出ようという様な心が取るために、努めるようになりました。そして人間は勝って先に出なくとも、必ず神様は天から見て居て下さるのであるから、心配する事は無いという事が分かったのであります。即ち親である神様は、人間が困る時には、必ず現れて御守護下さるに相違ないのであります。

その親である神様が、人間を御覧になると、人間は実に危ない道を通って居るのであります。丁度子供を伴れて道を歩きますと、子供は道の真中を歩かずに、好んで道の縁を歩いて道くさをするのであります。神様と人間とも其の通りで、人間は好んで危ない道ばかりを求めて歩いて居るのであります。親から離れて、自分勝手な所へ行って、帰るに帰れん様なことになってしまったならば、親の心配はどれ程のものであるかも分からんのであります。然るに子供は、その親の心を思わずに、勝手な道を歩く様に、世界の人間は皆我儘勝手な道を歩いているのであります。

何故なら一歩間違えば、深い谷のある様に、人間の生きている隣には、死が待って居るのであります。人間が油断をしたら直ちにその暗い世界へ、落ちて行かなければならないのであります。

然るに人間はそれを思わずに、わがまゝ勝手な道を通っている。即ち危ないところを歩いて居るから、神様がそれを心配して、こわきあぶなき道を案じる、と仰せられたのであります。

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10月26日秋の大祭記念十柱の神の御心と御守護

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