増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

心一つ道

地場への心(六)

一体人間というものは自分の力では毛筋一本どうすることも出来ないものであります。また自分の身体の家のことが、自分の手で始末がついて行くものならば、このお道はいらないのであります。 真に神様を信じているものであったら、自分のことは放って置いても…

地場への心(二)

教祖四十年祭が提唱されて以来、倍加運動が叫ばれ、全天理教はこの本部の声に対して、渾身の努力をして来ましたので、今や凡そ倍加に近くなっているのであります。しかるに山名はこの運動に遥かに後れてはないだろかと思ふのであります。名京分離の節があっ…

地場への心(一)

昨年の確か一月であったと思ひますが、女学校の寄宿舎で、こちらの教会長なり信徒方のお集りの所で、一度お話し申し上げたことがあります。その時の話はよく記憶していませんが、大体こんなことを、申し上げたと思ひます。 尚教会に対する久しい問題も解決し…

神の守護(二)

信仰の経路から申しますと、最初は貸物借物の理を聞かして貰うのでありますが、貸物借物の理に次いで、心一つが我がの理であると云うことを聞かして貰うのであります。そしてこれが悟れたら、因縁を自覚させて頂くことが出来るのであります。自分と云うもの…

神の守護(一)

人はよく誠と云うことを申しますが、本当の誠はそういう口で云う様に、容易に現れるものではありません。本当の誠は一番苦しい時に現れるものであります。 一切を捨てて難儀苦労をする中に、誠が現れるのであって、難儀苦労をすると云うことは、誠を知る為に…

年限の理(五)

知ると云うことと感ずる云うこととは大変意味が違います。教祖の御言葉でも、それを知るのは誰でもすぐ知ることが出来ます。けれども本当に教理を感ずるのには、一つの教理でも十年位はかゝるのであります。 そこでこのお道は「年限の道」と仰せられてありま…

信仰の向上(三)

ですからお助けをするものは、皆霊救を得ることを考へなければならないのでありますが、霊救は誰でも受けたいが仲々そうは行きません。神様は汚れた所へは行かんと仰せられますが、人間でも汚い処へ泊るのは厭であります。 清くして置けば入り易いのです。神…

信仰の向上(一)

宗教と云うものは、形の上からどうせよかうせよと、やかましく云う様なことでは、本当のものではありません。黙っていて、それが出来て来るの本当であります。 世の中のこともそうであって、皆目に見えぬ処から出来て来ているのであります。人間もその通りで…